「山本康久氏の証言」から(11)

 

「まず、わたしたちの母艦(母潜)に背負われた(搭載された)特殊潜航艇が、真珠湾沖20マイルの地点で発進し、開戦前夜、『湾内』に入る。
 湾内には、奥のブイから、敵の戦艦が2隻ずつ繋留している。
 特殊潜航艇は、湾内に侵入する順に従い、奥から、これらの敵戦艦の500メートルぐらい脇に照準を合わせ、潜航したままで待機する。
 そして、翌朝未明の機動艦隊の空襲に呼応して、引き金を引く」
 作戦は、こういう想定で立てられたという。
 これなら、「絶対に確実」だ。
 従って、攻撃に参加する潜水艦が、「5隻と4隻とでは、相手に与えるダメージが大幅に異なってくる」というのだ・・・。

 
 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「『元日本人』とは、真珠貝採取の出稼ぎ潜水夫として戦前にブルームへ渡り、第二次大戦勃発と同時に収容所へ入れられ、終戦後は日本へ送還されたのち、ふたたび潜水夫として渡豪した人々である。
 現在はオーストラリアに帰化しており、ブルームにはそういう人が、七、八人ほど住んでいる。
 私がブルームを訪れたのは、そうした採貝移民としてのかれらの生活を取材するためだった。
 いや、そのはずであった。
 ところが、そのうちの二人の老人、ヤスムラとアンザイが、収容所時代の話をはじめたとき、私の興味は最初の取材目的から大きくはずれ、まったくべつの対象へと向って、走り出していた。」

「わたしと映画・南十字星」(17)

  
 軍政監部の通訳である田宮稔は、なんとか軍の横暴を抑えようとする。
 そんな時、昭南港に停泊していた七隻の日本艦船が爆破される事件が起きた。
 軍はその犯人捜査に躍起となる。
 憲兵隊は抗日ゲリラの破壊工作とみて、容疑者を次々に検挙し、拷問を繰り返した。
 ところがそれは、ジェイウィック作戦と呼ばれる英豪軍特別攻撃隊の仕わざだった。

「─ソロモン諜報戦─ 南太平洋の勇者たち ウォルター・ロード/秦 郁彦訳」より


 ”ステーキと卵”の続き


 さらにずっと西の方に三人目の監視員であるF・アシュトロン・ローズがいたが、彼はラボロにあるバーンズ会社のコプラ農園支配人だった。
 ずんぐりした体つきで陽気なドン・マクファランは、戦前は雑貨会社の買付人をしていた。
 一九四一年に海軍の予備士官として召集された彼は、偶然に海軍情報部に入って、エリック・フェルトに見出され、ツラギに送られて、その地域の監視組織を作りあげ、海軍とマーチャント行政長官の連絡係として働くことになった。
 一九四二年三月、日本軍がソロモンにやってきたとき、マーチャントは政庁を東方一〇〇マイルのマライタ島アウキに移し、マクファランはフェルトの指令に従ってガダルカナル島に移動した。