2006-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「AUSTRALIA」(17)

いくら幼いときから「台所に立つ」ことに慣れているとは言え、かなりアルコールが入った後である。 だが、彼らはコップ一つ割ることもなく、鮮やかに後始末をやってのけるのだ。 オーストラリアで行われたある調査によると、「家庭の中心」となっているのは…

「AUSTRALIA」(16)

彼らは、このほかにも、芝生の手入れや子どもの世話(育児)、車の修理と、何でもする。 冷蔵庫にビールが何本残っているかを知り、朝はベッドにいる奥さんにコーヒーを持って行く亭主も少なくない。 奥さんと言えば、この国の女性のアルコールの飲みっぷり…

「AUSTRALIA」(15)

中には、ビールまで作る器用な? 友人もいるが、ごちそうになった限りでは、味の方は「もう一つ」だった。 「バーベキューにかけては、俺の右に出る者はいない」と豪語する友人も何人かいるが、とにかく、この国の男どもは、「信じられないぐらい」マメに働…

「AUSTRALIA」(14)

〜オーストラリアン・ハズバンド〜 (すでに紹介した内容もあるが、重複を承知の上で、あえて書かせていただく)。 この国の男性は、実によく働く。 わたしの友人のほとんどは、工作室と物置きとを兼ねたガレージを自分の手で作った。 古くなった家を手に入…

「AUSTRALIA」(13)

〜この国に住む人たち〜 オーストラリアの呼称は、ラテン語の「テラ・オーストラリス=南の土地」に由来し、19世紀の初めに、イギリスのマティウ・フリンダーが大陸を一周して発表した紀行文の中に、この言葉を使ったのが最初だと言われている。 住民のお…

「AUSTRALIA」(12)

例えば、1642年までは、連邦と州が、それぞれ別個に所得税を徴収していたが、その年、連邦が戦争遂行のために高率の所得税を課すようになり、州は実質的に「それ以上の課税」ができなくなった。 以来、州は「課税しない代償」として、連邦から補助金を受…

「AUSTRALIA」(11)

〜州政府と連邦政府と〜 1901年に制定された連邦憲法は、連邦の権限を「国防や外交、租税、郵便、通貨、為替、貿易、移民などの特定事項」に限定しており、そのほかについては「州の権限」として残されている。 その上、連邦の権限と定められた前記の事…

「AUSTRALIA」(10)

1931年、イギリス議会はウェストミンスター憲章(法令)を制定する・・・。 これによって、イギリス議会が自治領の承認なしに、「関係する法律」を制定することは禁止されるようになった。 この結果、オーストラリアも、そのほかのイギリスの自治領とと…

「AUSTRALIA」(9)

1900年には、イギリス議会によって、オーストラリア連邦憲法が制定された。 そして、翌年の1901年から実施されたこの憲法の下で、オーストラリア連邦が成立する。 メルボルンに暫定的に連邦議会が設けられて、各州間の関税は廃止され、国防、外交、…

「AUSTRALIA」(8)

〜オーストラリア連邦が誕生するまで〜 今日のオーストラリアは、6つの州と連邦直轄地域とから成り立っている。 これらの6つの州が「州として成立」したのは、ニュー・サウス・ウェールズ州を除いて、いずれも19世紀のことだ。 これらの植民各州の成立当…

「AUSTRALIA」(7)

キャプテン・ジェームス・クックは、ニュージーランドを経てタスマン海を通り、1770年の4月20日に、オーストラリア大陸の東南海岸を発見した。 次いで29日に、シドニーの南にあるボタニー湾に上陸し、そこから北方にかけて精力的な測量を始める。 …

「AUSTRALIA」(6)

〜200年前に誕生した新しい国〜 オーストラリアが歴史上の記録に現れたのは、1606年にスペイン船とオランダ領東印度会社の船がこの大陸の北方海域にやってきたことと、1642年、オランダ人のA・J・タスマンがタスマニア島とニュージーランドを発見し…

「AUSTRALIA」(5)

オーストラリア大陸の40パーセントは熱帯に属しているので、気候は一般的に暑くて乾燥している。 その度合いは、奥地に入るほど強くなる。 温度も、海抜1800メートル以上の高地は別として、「氷点下」になることはほとんどない。 夏は、南部を除く地方…

「AUSTRALIA」(4)

北半球の常識で、冬季に薄着をしてオーストラリアに来た日本人が風邪を引いたという話もある。 また、パパイヤ(この国では、ポポーと言う)やマンゴーが、北部の地域で出来ると言われても、すぐにはピンとこない人も多いだろう。 家は、北向きに建てるのが…

「AUSTRALIA」(3)

〜気候は日本と正反対、真夏にクリスマスがやってくる〜 国土の広さやその平たんさに限らず、オーストラリアほど日本と対照的な国も珍しいのではないだろうか。 赤道を挟んで北4000キロに東京、南4000キロにシドニーがある。 緯度が反対だから、当然…

「AUSTRALIA」(2)

海抜150メートル足らずの低地が、かなりの部分を占めている。 オーストラリア大陸全体の平均高度は300メートル以下で、これを世界の陸地部分の平均高度700メートルと比較すると、いかに「平たんな大陸」であるかがわかる。 逆に、海抜600メート…

「AUSTRALIA」(1)

(これは、1976年3月31日に、東京のある銀行から発行された広報誌の抜粋である)。 「オーストラリアとは」〜日本の21倍の広さに人口わずか1300万人〜 総面積768万6420平方キロ、アラスカとハワイを除いたアメリカ合衆国とほぼ同じで、…

「1970年代初期のオーストラリア」

わたしがオーストラリアに滞在していたころは、「アメリカが風邪を引くと、日本がくしゃみをし、オーストラリアが熱を出す?」という時代だった。 日本にとって最大の貿易相手国は、「アメリカ」。それに次ぐのが、イギリスのEC加盟で、本国? と疎遠になり…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(39)

まあ、当分は、かつてオーストラリア大陸をさまよい歩いたスワッグ・マンのように、 「オーストラリア」をくるんだ「マチルダ」を肩に背負いつつ、足の向くまま、気の向くまま、「北に南に、東に西に」と、 わが「オーストラリアを知らせる勝手連」は、あて…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(38)

茂泉氏の「後押し役」の私としては、一日も早く日豪間の協定が結ばれて、民間外交が活発になることを、ただただ願うばかりだ。 わが勝手連のこれからの目標は、わたしの狭い一室を独占しているさまざまなオーストラリアに関する文献(連れ合いに言わせると、…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(37)

1981年の5月、ドッヅ氏の努力もあって、茂泉氏ら会員4人がオーストラリアを訪問し、各地の団体に、「オーストラリアにも、家族交流協会と同じような組織を作ろう」と呼びかけた。 現在、オーストラリアの団体と細部に渡っての「最後の詰め」が行われて…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(36)

「家族交流協会」は、大阪万博のとき、茂泉氏が宿泊場所に困っている人々のために、大阪の人たちに「旅の宿をお互いに提供し合いませんか」と呼びかけたのがきっかけとなって生まれた。 今では、全国に3・300世帯の会員がいる。 協会の発足10年の実績…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(35)

この件については、オーストラリアが大好きで、また、よく知る者にとって、「どう表現したらいいか」わからないほどの寂しさ? を感じた。 だが、多くの時間が経過した今は、「南十字星の外国向けのフィルムが、長坂氏(ジェトロのシドニー駐在員)や私が気…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(34)

唯一の救いと言えば、この映画で主役を演じた中村敦夫氏が、「完成記念パーティー」の挨拶で、 「私は、この映画を反戦映画だと理解しています」と、力強く言われたことだ。 「コアラ・プレス」第7号で、長坂寿久氏が「南十字星」について、 「『君の手で、…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(33)

しばらくして、持丸氏から、 「映像処理の上で、うまくやるとスタッフが言っている。あまり心配しなくてもいいじゃないですか」という電話があった。 この持丸氏のひと言にすべてを託し、それ以上反対するのはやめた。 後日、監督を務めた丸山誠治氏とお話し…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(32)

C・W・ニコル氏の記事を続ける。 「その写真の印象は、堪え難いものだった。日本人というのは、何という残忍で野蛮な民族だろう! 何よりも怪しからぬのは、青年を殺す前に、土の上にひざまずかせたことだ。 人は、神の御前以外にひざまずくものではない、そ…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(31)

「こんな場面を挿入したら、日豪親善に水を差すことにもなりかねない」と反対し、しばらくは「冷戦状態」が続いた。 私が「斬首シーン」に強く反対するには、理由があった。 C・W・ニコル氏が、ある雑誌に書いた文章が、私の頭の中に強烈に残っていたからだ…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(30)

これをきっかけに、私は、何が何でも「日豪合作映画の夢」を実現したくなった。 持丸氏と何度もお会いし、そのつど「オーストラリア人の国民性」について語り、彼らとの交渉の仕方やルールなど、2年余りの滞在と帰国後の彼らとの交流を通じて学んだ知識のす…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(29)

この映画祭の当日は、先ごろオーストラリアに帰国された豪日交流基金の前東京事務所長のドッヅ氏と、会場の設営から、入場券のもぎり役まで一緒に行ったが、これも、今では懐かしい思い出になっている。 ところで、初の日豪合作映画「南十字星」のお手伝いを…

「オーストラリアを知らせる勝手連」(28)

私の「オーストラリアを知らせる勝手連」は、ただ「講演をして歩く」だけにとどまらない。 特に、勤務先が仙台に変わってから、活動の範囲は、ますます広くなった。 「オーストラリア映画祭」を開くために飛び回ったり、ホームステイするオーストラリア人に…