2006-12-01から1ヶ月間の記事一覧

「山本康久氏の証言」から(68)

仮に、遠く離れた艦が、状況の変化をいちいち報告して指示を仰いでいたら、戦機を失って、大部隊を動かすことはできなくなる。 「艦長は指令」の、「指令は司令官」の、そして「司令官は長官」の命がなくても、自ら判断して行った結果が、ちょうど「命令を受…

「山本康久氏の証言」から(67)

五、命令が無くとも、上官の意図に合すること 演習のときには、敵は「想定通り」出撃してくる。 だが、実戦となると、そうはいかない。 出撃してから2カ月も作戦行動を続けていると、当然、「敵情」は大きく変化する。 そのとき、「ここに司令官がいれば、…

「山本康久氏の証言」から(66)

「それができなければ、文句を言う資格はない」とも教えられた。 海軍に入って10年も経っている下士官に対して文句を言うときには、何事にも、まず「手本」を示さなければらない。 だから、われわれ潜水艦の将校には、「勉強しなければならない」ことがた…

「山本康久氏の証言」から(65)

同時に、「誇りと風格」を備えるよう養成された。 これに対し、陸士の場合は、ほぼ半年ごとに、上等兵ぐらいから、だんだん位? が上がっていく。 つまり、陸軍では、一つずつ覚えて、「それに応じて、上位に行く」という、いわゆる「ドイツ流」を採用? し…

「山本康久氏の証言」から(64)

一方、ドイツ流は、長(上に立つ者?)は、必ず部下よりもそのことについて立派にやり遂げられなければ、「命令もできないし、長たる資格」もないというものだった。 兵学校で「英国流の教育」を受けたわたしたちは、違っていた。 極端な一例を申し上げると…

「山本康久氏の証言」から(63)

「英国流とドイツ流」とでは、外見的に「大きな違い」がある。 両方とも参考になると思うので、ぜひご紹介したい。 英国流では、いわゆるオフィサー(指揮官、社長)は、「兵卒の成り上がり」ではない。 言い換えれば、ものを一つずつ覚えて、その数が多くな…

「山本康久氏の証言」から(62)

これに対し、日本経済が今日のように発展したのは、「政策」ではなく、国民が「懸命に働いた」からだ。 このことは会社でも同様で、社員が「他社の人間よりもよく働く」ことが、会社の栄える最良の方策だと考える。 他よりも出んとすれば、「人並み以上の努…

「山本康久氏の証言」から(61)

確かに、「外貨の獲得」には貢献したかもしれないが、イギリスの国際収支は、ビートルズが稼いだぐらいでは、どうにもならない。 ビートルズが流行るのは、やはり国民(青年)が怠け者になっている証拠だ(???)。 だから、平価切り下げを実施したところ…

「山本康久氏の証言」から(60)

三、英国の学生とビートルズと平価切り下げ イギリスは、小さな島国でありながら、ナポレオンにもヒットラーにも、本国を侵されることなく過ごしてきた。 それどころか、19世紀ごろまでは、全世界を制する堅実な国民(国家?)だった。 第1次世界大戦で西…

「山本康久氏の証言」から(59)

「だから、わたしはとても苦しい。 もう、どうにも耐えられないというとき、さらに頑張らなければ、君たちも『沈む2隻』の一員になってしまう、と言った・・・」。 部下に本当に言いたかったは、「人並みの努力では、人並みの結果しか得られない」というこ…

「山本康久氏の証言」から(58)

昭和18年の後半からは、4隻のうち、無事に帰還できるのは「2隻」になった。 つまり、2隻は沈没して、帰ら(れ)なかったのだ。 そして、「生還した2隻」に、新たに2隻を加えて出撃する。 今度も、戻ってくるのは「2隻」だけ。 また、同じように「2…

「山本康久氏の証言」から(57)

二、人並みの努力では、人並みの結果しか得られない これは、わたしが戦時中から戦後の今日まで、「座右の銘」にしている格言だ。 どういうことか説明すると、戦争当初、「ハワイを攻撃した」ときには、「4隻の潜水艦が組んで(一組になって)」出撃した。 …

「山本康久氏の証言」から(56)

これは、一般の民間企業にも言えることだ。 どの企業にも、「事業上の闘い」に遭遇することがあると思う。 だが、腹が立ったとき、あるいは、敵(相手)が仕掛けてきたときに「けんか」をするのはダメだ。 必ず、「負けること」になる。 それどころか、会社…

「山本康久氏の証言」から(55)

ソ連にとって、日本は「恩人のはず」だった。 だから、終戦のとき、日本は「ソ連が、恩を感じている」と考えて「仲介」を依頼した。 ところが、ソ連は、日本の期待に反して? 「間もなく、日本は倒れる。侵略するのは今だ」とばかりに、わずか一週間で、満州…

「山本康久氏の証言」から(54)

「独ソ戦」が起きたとき、日本にシベリアを侵攻されたら防ぎようがない。 手のひらを返したように、松岡洋右を温かく迎えたのは、 それを恐れて、「日ソ不可侵条約」を締結したかったからだろう。 この「日ソ不可侵条約」のため、日本は、シベリアに入らなか…

「山本康久氏の証言」から(53)

「共倒れになるのを恐れて、開戦しなかった」だけなのだ。 お互いに「不倶戴天の敵」ではあるが、「必ず勝てる見込みが立つ」までは「開戦」しない。 これが、最も大切なことだ。(ハ)終戦時のスターリン 松岡洋右(注:1880-1946 政治家。山口県生まれ。 …

「山本康久氏の証言」から(52)

(ロ)キューバ事件の米ソ対立時のケネディとフルシチョフ この間の「キューバ事件」(注:1962年10月、人類最大の危機・キューバ事件は発生した)のとき、ケネディとフルシチョフは、「一触即発」のところまで追い込まれていたが、お互いに、「立ち上がるこ…

「山本康久氏の証言」から(51)

昭和12年に、アメリカは一度は「戦争を決意した」が、「開戦」はやめた。 逆に、16年のときには、山本(五十六)長官が、 「今は、開戦の時期ではない。日米会談の成立を望んでいる」としたのに対し、ハル長官(参考:米国務長官コーデル・ハル。日本に…

「山本康久氏の証言」から(50)

そんなとき、「最も誇るアメリカの海軍より、日本海軍の方が上だ」というので、アメリカ中が大騒ぎになった。 だが、それでも、アメリカ大統領は作戦部長の進言を聞き入れて、開戦を促す世論に応じることはなかった。 そのおかげで、わたしたちは、昭和14…

「山本康久氏の証言」から(49)

実例を申し上げたい。 (イ) 昭和12年の上海事変のとき、「いずれ、日本とアメリカとの間で戦争は起きる」として、両軍の艦隊は、すで 「実弾を積み込む」など、開戦寸前の状態にあった。 あとは、「大統領の署名を待つだけ」となっていたとき、アメリカ…

「山本康久氏の証言」から(48)

終戦後、鹿島建設に入社してから今日までのことは省略することにして、次に、わたしの「所感」を申し上げたい (注:本来の目的からすると、ここで中止すべきかもしれないが、貴重な「戦争体験者」としての山本氏の講演内容を、引き続き紹介させていただく。…

「山本康久氏の証言」から(47)

わたし以外の新婚仲間10人は、全員戦死し、わたしの女房だけが「未亡人」にならずに済んだ。 現在、わたしは妻と離れて、勤め先の出張所の寮で「独身生活」をしている。 だが、妻は、それほど不満そうな顔は見せない。 「本音」はわからないが、それで も…

「山本康久氏の証言」から(46)

しぶしぶ、一カ月分の航海手当をあきらめて艦を降りたのだが、その艦・ロ114号潜水艦は、サイパンに到着する前に沈没した。 もし、わたしが宴会場にオーバーを忘れることがなかったら、艦とともに運命を共にしていたに違いない。 当然、今日、こうして皆…

「山本康久氏の証言」から(45)

ふぐを十分にいただいて、体が温まったせいか、宴会場にオーバーを忘れて帰ってしまった。 翌朝、公用使に「取ってくるよう」依頼していたところ、私たちのやり取りを聞いていた艦長から、 「出港時間も迫っているし、君には、航海手当は必要ないだろう。 奥…

「山本康久氏の証言」から(44)

結局、わたしは、サイパンに行ってから艦を降りることにした。 海軍では、「学生」になると、航海手当が付かなくなる。 一方、南方では、潜水艦の「戦時加俸」をがもらえるので、位は大尉でも、収入は、(戦時加俸の付かない)内地の陸上勤務の少将と同じぐ…

「山本康久氏の証言」から(43)

伊24の竣工時からの乗員は、すでに半数ぐらいが交代していた。 その生存者の中で、わたしは、「伊24を最後に降りた者」となった。 高等科の学生は、6カ月の教育を受けるのだが、わたしは、2カ月遅れで入学したため、4カ月で卒業した。 直ちに、ロ11…

「山本康久氏の証言」から(42)

「ラバウルでの戦闘中」に、わたしは、「高等科学生(先任将校になるための教育)」の発令を受けた。 だが、いつまで待っても、後任者は来ない。 そこで、艦長に、「遅れて学校に入るのはどうかと思うので、次の機会に延ばしてくれるように」と、申し入れた…

「山本康久氏の証言」から(41)

われわれ特別攻撃隊も、ガダルカナル攻撃には何度か出撃した。 だが、ガダルカナルは、ついに敵に奪われてしまう。 (注:1942年8月〜1943年2月、日米両軍は、ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って激しい戦いを繰り広げた。第2次大戦の3大激戦…

「山本康久氏の証言」から(40)

これに関連して、オーストラリアのキャンベル環境・自然文化遺産相は、12月1日、「先月末にシドニー沖で発見された船体は、日本海軍の特殊潜航艇と確認された」と発表した・・・。 「シドニー攻撃」に関しては、一応完結する形になったが、「戦争の現場を…

「山本康久氏の証言」から(39)

「放送では、オーストラリア海軍の専門家が、船体の形状などから、昭和42年5月にシドニー湾を攻撃した2人乗りの特殊潜航艇という見方を示し、オーストラリアの国防相も、『日本とオーストラリアの戦争の歴史の一部として、重要な発見だ』と述べた。 この…