2006-11-01から1ヶ月間の記事一覧

「山本康久氏の証言」から(37)

夜間なので、正に、「闇に鉄砲」。いくら撃っても、当たらない。 30発ぐらい撃ったところ、「当たらぬ鉄砲も、数打ちゃ当たる(下手な鉄砲も数うてば中る)」で、一発が商船に命中して火災を起こした。 商船は、シドニーの基地に向けて、「by shell on fir…

「山本康久氏の証言」から(36)

艦長は、「シドニーの基地も、すでに気づいている。いい加減に、追撃をやめようではないか」と言い出した。 「冗談じゃない。わたしの目は、特別な訓練を受けている(高雄の航海士のとき、毎晩30分ぐらいずつ、真っ暗な海上を見る訓練を繰り返した)ので、…

「山本康久氏の証言」から(35)

潜水艦からの魚雷は、距離1・500メートル、方位角60度ぐらいで発射しなければ、なかなか命中しない。 また、相手の船に「お尻を向けられる」と、不可能になってしまう。 シドニー周辺は夜光虫が多く、まばゆいほどの光を見せる。 やっとよい射点に着い…

「山本康久氏の証言」から(34)

世の中は、「広いようで、狭いもの」のようだ。 われわれが弾を撃ち込んだとき、三井生命の狩野不動産部長の知人が「シドニーにいた」という。 その人は、昭和18年の交換船で帰還する際、当時の新聞を「せっけんの中に、こよりにして」持ち帰り、海軍省に…

「山本康久氏の証言」から(33)

特潜の性能からみて、「もはや、乗組員の生存の見込みはない」と判断し、捜索を断念する。 わたしの艦には、14サンチ砲を積んでいたので、「弔い合戦」の意味で、6月7日に、シドニー市街を攻撃することになった。 湾の入口が丘陵になっているため、潜水…

「山本康久氏の証言」から(32)

(参考) 日本潜水艦史(10)より 「伊号第27潜水艦 乙型 中馬兼四大尉 大森 猛一曹艇 伊号第22潜水艦 丙型 松尾敬宇大尉 都竹正雄二曹艇 伊号第24潜水艦 丙型 伴 勝久中尉 芦辺 守一曹艇 昭和17年5月18日、第2次特別攻撃隊シドニー攻撃隊はトラック島を出撃…

「山本康久氏の証言」から(31)

わたしの艦は最新鋭の潜水艦なので、大きな海戦には、必ずと言っていいほど「お座敷」がかかり、ひっぱり出された。 この珊瑚海海戦にも、当然のごとく出動した。 ここでの海戦が終わると、今度は、5月16日に、前進基地のトラック島に入港し、シドニー攻…

「山本康久氏の証言」から(30)

攻撃が終わった12月8日の夜、湾内にいる横山少佐の艇から、 「トラ・トラ・トラ」(我れ攻撃に成功せり)の無電があった。 だが、彼の艇は、永遠に帰還することはなかった。 その後一ヶ月ぐらい、われわれは、真珠湾の出口を封鎖し続けた。 また、年が明…

「山本康久氏の証言」から(29)

わたしたちは、「もし、わが機動部隊を追って敵の艦隊が出動したら、湾口を取り巻く親潜水艦がこれを攻撃する作戦」を立てていた。 ところが、機動部隊の攻撃が「大なる功」を奏して、敵は追撃してくるどころの騒ぎではなかった。 当時の特殊潜航艇は、終戦…

「山本康久氏の証言」から(28)

これについては、後に、彼(酒巻少尉)の書いた「捕虜第一号(当時のベスト・セラーになった)」をお読みいただきたい。 ところで、12月7日の夕刻に酒巻艇が発進したあと、わたしたちは、翌日の「12月8日」を待ち続けていた。 ホノルルからのラジオ放…

「山本康久氏の証言」から(27)

「前回の教訓」を生かして? 、このときは、「発進」させることなく彼を連れて帰り、「再挙」を図った。 このように、開戦後、何度も攻撃する経験を積んでいたら、「故障した特潜を、無理に参戦させるようなことはなかった」と思う。 真珠湾のときは、 「ま…

「山本康久氏の証言」から(26)

「せっかく、ここまで来たのだから」と、攻撃に参加する方に賛成した。 「わたしは、遠洋航海でハワイを訪れて真珠湾を見ているので、入り口のわかるところまで案内してやる」と言って、入り口の見える地点まで誘導し、そこで彼に別れを告げた。 これが、「…

「山本康久氏の証言」から(25)

潜望鏡を「出しっ放しにしたまま」なら、湾内に入れるかもしれないが、入り口付近を警戒している敵の見張りが厳重で、「潜望鏡を下ろさなければならない」としたら、侵入はほとんど不可能だ。 艦長は、酒巻少尉を呼んで、 「出る(出撃する)かどうか」と、…

「山本康久氏の証言」から(24)

指導官のアドヴァイス? に従って、わたしたちは、湾口の沖3マイルの地点から、真珠湾をスケッチした。 わたしは、ちょうど2年後に、この湾口を再び訪れたことになる。 当時のスケッチや指導官の言われた言葉を思い出し、「感無量」のものがあった。 最近…

「山本康久氏の証言」から(23)

一方、わたしたちは、「せっかく特別攻撃隊に編入されて、ハワイ沖まで来ているのに、開戦にならずに帰るのではおもしろくない」と考えていた。 そんなとき、12月3日の夜、「新高山登れ」(開戦日を予定通り、12月8日に決定す)の電報を受信し、「これ…

「山本康久氏の証言」から(22)

(再び、この貴重な冊子をわたしに提供してくださった砲術長・山本康久中尉の「証言」に戻る)。 わたし(山本さん)が乗船していた伊24は、昭和18年に沈んだので、酒巻君は、「わたしは死んだものと」思っていたようだ。 現在(講演された当時)、彼は…

「山本康久氏の証言」から(21)

「わたしが、このことを電報で知ったのは、12月10日か11日、『特潜の収容地点』で艇員の帰りを待っていたときだった。 捕虜になった事情はわからなかったが、当時は、理由のいかんにかかわらず、『捕虜になることは認めない時代』であった。 だから、…

「山本康久氏の証言」から(20)

「『捕虜第一号』の酒巻和男少尉である。 艇付きの稲垣清・二等兵曹は、最初は泳ぎながら声を出していたが、そのうちにわからなくなってしまった。 酒巻少尉は、その後、米軍将校の話などから、次のように判断している。 『艇は、潮に流されてオアフ島の北東…

「山本康久氏の証言」から(19)

「そこで、『次期攻撃への再起』(シドニーやシンガポールなどが予定されていた)を決意して、8日の夜、あらかじめ決められていた『特潜の収容地点』に向かった。 途中、悪ガスと高圧空気のため、何度か失神したが、月の明かりを頼りに走っていると、9日の…

「山本康久氏の証言」から(18)

「花房艦長の『成功を祈る』という言葉を後に、酒巻艇は母潜を離れた。 (中略) コンパスが故障したまま発進した酒巻艇は、まったくの『盲目潜航』だった。 湾口に接近しようとしたとき、潜望鏡で見ると、自艇が真珠湾から遠ざかっているのに気づいた。 『…

「山本康久氏の証言」から(17)

「捕虜第一号」となった「酒巻和男さん」の名誉のために、当時の司令・佐々木半九さんの書かれた「決戦特殊潜航艇(朝日ソノラマ出版=昭和59年9月発行)を要約し、その一部を紹介させていただく。 「特潜の最後の整備中に、ジャイロ・コンパス(羅針儀)…

「山本康久氏の証言」から(16)

「聯合艦隊」には、第一艦隊を初めとする多くの艦隊があり、その中の第六艦隊が、「潜水艦隊」だった 。 その第六艦隊には数個の潜水戦隊があり、各潜水戦隊は、さらに数個の潜水隊から成り立っていた。 ハワイに向かう特別攻撃隊は、第三潜水隊を主体に、特…

「山本康久氏の証言」から(15)

一方、 陸上で作戦を練っている 軍令部は、あくまでも、「5隻出撃させよ」と主張した。 すでに述べたように、「5隻」と「4隻」とでは、作戦上、大きな違いがあると考えたからだろう。 「現場の艦隊」と「陸上の軍令部」の意見が分かれるのは、むしろ「当…

「山本康久氏の証言」から(14)

「特殊潜航艇を1隻でも多く参加させられるかどうか」が議論になった背景には、こういう事情があった。 山本長官は、終始、「日米開戦は、今はやる時期ではない。『ハル会談』の成立を望んでいる」・・・。 (注:昭和16年4月16日に開かれた「 野村・ハ…

「山本康久氏の証言」から(13)

このように、「5対3」の苦しい比率を補うため、「月月火水木金金(注・一週間に、休みが一日もないという意味)」と、猛訓練を続けた。 「10」の兵力で向かってくる米艦隊を、日本近海に到達するまでに、飛行機と潜水艦とで次々と撃沈して、日本に来ると…

「山本康久氏の証言」から(12)

この点に関して、かなり詳しく説明しておられるので、そのまま紹介する。 5対3の比率というのは、普通に考えると、「5と3」で、けんかをすれば、「5・マイナス・3」で、残りは「2」となる。 だが、実は、これは大違いで、「3が全滅」したとき、相手…

「山本康久氏の証言」から(11)

「まず、わたしたちの母艦(母潜)に背負われた(搭載された)特殊潜航艇が、真珠湾沖20マイルの地点で発進し、開戦前夜、『湾内』に入る。 湾内には、奥のブイから、敵の戦艦が2隻ずつ繋留している。 特殊潜航艇は、湾内に侵入する順に従い、奥から、こ…

「山本康久氏の証言」から(10)

ところが、軍令部にとって、 「攻撃に参加する潜水艦を、5隻にするか4隻にするか」では、作戦上大きな違いが出てくる。 「伊24を攻撃に加えるように」という声が強かったのは、そのためである。 結局、最後は艦長の所信(判断)に任せることになったのだ…

「山本康久氏の証言」から(9)

文字通り、10日間の「突貫工事」で「筒搭載装置の取り付け」を終えた後、いよいいよ「11月17日に出撃」と決まった。 だが、訓練できるのは、わずか3日間しかない。 その上、潜水艦は、技術の粋を集めた「精密な機械」であり、竣工を終えてすぐ戦地に…

「山本康久氏の証言」から(8)

軍縮会議で、米・英・日の補助艦の比率が、「5・5・3」に制限されたことで、日本としては、米艦隊が日本近海の決戦場に到達するまでに、飛行機と潜水艦で攻撃し、「同じ比率にしておきたい」という事情があった。 だから、機動部隊と特殊潜航艇がハワイま…