2007-01-01から1ヶ月間の記事一覧

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(27)

(注): A中佐が話した「エピソード」の補足をする。 この高級住宅街は、わたしがオーストラリアに滞在していた1970年代には、「日本商社の駐在員が多く住んでいるところ」として、知られていた。 これについて、オーストラリアの人々から、「日本人も…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(26)

「私が攻撃する特潜の艇長の心理を推測していたとき、A中佐は興味あるエピソードを語った。 『あの攻撃の後で、日本軍が上陸して来るという噂がひろがり、シドニーは大騒ぎとなった。 この左手の海岸は、高台でシドニーでも有数の高級住宅地だが、住んでいた…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(25)

「艇はサウスヘッドからかなり離れていた。 ここから見ると、灯台のはるか延長戦に、ハーバーブリッジのアーチが遠望された。 三人の艇長は、果たしてこのアーチを視認し得たであろうか。 もし、視認し得たとするならば、アーチは夕照を背にうけて、こよなく…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(24)

「そして、ふたたび、この湾口を出ることが出来たのは伴艇のみであり、そのときは灯台は消されていた。 この灯台の灯光は、一種の光明であったに違いないが、それが果たしてどのような種類の光明であったかを説明することは困難である。 湾内も風が強かった…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(23)

「このあたりから見るサウスヘッドは印象的である。 白と茶のミックスした崖が連なっており、岬の突端には白い灯台がある。 インナー・サウスヘッドの灯台である。 五月三十一日の夜は、初めの間点灯していたというから、三艇はこの灯台を目標にして、湾口を…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(22)

「『マツオの艇を引き揚げてみたとき、一本の発射管からは魚雷が頭を出し、フレーム(枠)に引っかかっていた。 あのとき、魚雷が命中していたら、シカゴ(注:アメリカの一万トン級巡洋艦)は沈んでいたかも知れない』 シカゴはこのとき幸運にも助かったが…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(21)

「伴はふたたびこの切れ目を通って外洋へ出ることが出来たが、松尾大尉はついに脱出することが出来なかったのである。 艇はさらに北に向った。 右側にサウスヘッドが近づいて来た。 ここをかわれば外洋のタスマン海である。 サウスヘッドの西一キロの地点を…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(20)

「 ── どうして海で死んだ戦士には墓標がないのか。 海がすべてを呑みこみ、戦士はそれで満足だというのであろうか ── 防潜網にスクリューをからめとられて、二時間半も苦悶した末自爆した中馬大尉と大森兵曹の戦死の地に、ただ蒼い海水が、風に吹かれて白泡…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(19)

「ジョージス・ヘッドは白っぽい崖で、あたりの水深は深そうであった。 艇は、右に変針して、グリーン・ポイントに向った。 途中で艇は停止した。 『このあたりが、防潜網の中央に近い。 チューマン(注:中馬)の艇はこのへんでネットにひっかかって、デモ…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(18)

「『そのとき、案内役を勤めたのが私だ。 マツオのマザーはずい分小さかった。 それでも船に乗って、ここまで来た。 彼女はここで、息子のために花を投げた』 と説明しながら、中佐は入り江の海面を指さした。 艇はタブロールの入り江に別れを告げて、北東に…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(17)

「タブロールので入り江あった。 北は崖で、西は浜になっており、その向うに緑の林と白い住宅が見えた。 私は、周辺の写真をとった後、心のなかで告げた。 ── 松尾さん、来ましたよ。あなたとよく柔道をやった豊田です ── 入り江の水は藍が濃かった。 私はそ…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(16)

「花束は水面に浮き、波に揺れていた。 艇は前進をかけ、花束は後方に遠ざかって行った。 私はしばらく花束の行方を見守っていた。 伴はわかってくれただろうか。(中略) 昭和四十八年三月四日昼、私とA中佐をのせたオーストラリア海軍の高速艇は、シドニー…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(15)

「伴は私と話をしたがっているのだ。 しかし、私はあえてそれを語らぬことにした。 何を語りたかったのか。 強いて言えば、 『伴、なぜ貴様はそんなに早く死んでしまったのだ』というような言葉であったのかも知れない。 ── 伴、達者でな。いずれ貴様の艇と…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(14)

「私はもう一度、心のなかでそう語りかけた。 風はうなずいてるふうであった。 三十一年前、あの髭面で、サッカーと乗馬の得意だった伴は、この海面のすぐ下で、戦艦を撃沈すべく艇を操作し、二本の魚雷を発射したのであった。 ── 伴、貴様、よくやったぞ。 …

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(13)

「私は花束を手にすると、空を仰いだ。 空は晴れており、太陽は天心に近く、私の両眼は眩しさのために細くなった。 ── 伴、来たぞ ── と、私は心のなかで告げた。 私は海面を見た。 シドニーの海はさほど汚染されているとは思われなかったが、それでも、重油…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(12)

「私は、オーストラリア海軍渉外部が用意してくれた高速艇に乗って、A中佐と共に、港内(シドニー港)を巡礼することになった。(中略) 私は中佐に、伴が魚雷を発射した位置に来たら艇をとめてほしい、と頼んだ。 しばらくゆくと、艇はエンジンをとめ、大き…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(11)

(「特殊潜航艇」(6)に続く) 「特潜の生き証人」としての豊田さんのこのあとの記述が、私の心に鋭く突き刺さった。 「私はそんなことを考えながら、飽かずに海面を見下ろしていた。 この湾の構図を自分の胸のなかに叩き込んでおきたい、と考えていた。 …

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(10)

(「この作戦では、特殊潜航艇3隻のうちの1隻が、シドニー湾内に停泊していたオーストラリア海軍の宿泊用艦船に魚雷を発射し、兵士19人が死亡した。 ダイバ−7人によって発見された艇の全長は20メートル余りで、 映像では、船尾のスクリューや司令塔、…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(9)

(2006年11月28日の新聞が、テレビの画像から撮った「シドニー沖で、第2次大戦中に沈没した旧日本海軍のものと見られる特殊潜航艇を調べるダイバー」というキャプション付きの写真とともに、 「旧日本軍の特殊潜航艇?発見 シドニー沖」という記事を…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(8)

「シドニー攻撃」が行われたのは、昭和17(1942)年5月31日だったので、伴艇は、実に「64年以上」も、リーフの上に横たわっていたことになる。 「伴艇がそのリーフの上に横たわっているのに、三十年も放っておくのでは、伴も淋しかろうと考えた」…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(7)

「伴艇の発見」については、わたしのブログ「山本康久氏の証言」からの(38)と(39)で紹介した。 実は、「日本の特殊潜航艇が見つかった」という話は、かなり以前、「非公式」に聞いていた。 ただ、その情報源が「豊田穣さん」であったかどうかは、確…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(6)

「『その情報の信憑度をね』 『そうです。こういう情報はこの国には多いのです』 『いくらというのですか、金は?』 『五百ドルというのです』 『・・・・・・・・・・』 私は、心のなかで、その信憑度を確かめ、確実にそうであれば、帰国後六十八期のクラス…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(5)

「田中君は、興味ある情報を私に漏らしてくれた。 『松尾艇と中馬艇は、攻撃の後引き揚げられて、搭乗員の遺骨は交換船で日本に帰っています。 しかし、伴中尉艇は、湾口を出て、南方二十マイルの海岸近くで沈没しただろうという推定だけで、その行方がわか…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(4)

「田中領事は、海兵七十六期、私の八期下である。 私は、出国前、総領事館を通じてオーストラリア海軍に、シドニー特別攻撃隊取材に関する協力を要請しておいた。 攻撃のくわしい説明、湾内を各艇の進路に沿って航走してみること、当時の生存者の証言等であ…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(3)

そこには、戦争を体験した者にしかわからない「事実」が、詳細に、しかも、懇切・ていねいに書かれており、「小説」というよりも、「ノン・フィクション」の世界だった・・・。 ここでは、「本文」ではなく、「豊田穣さん自身を語る部分」だけを引用させてい…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(2)

そこで、豊田穣さんの本にある「著者略歴」を見てみると、 「大正9年満州四平街生まれ。海軍兵学校卒。海兵68期。(中略) 昭和24年「帰還」で第1回横光利一賞次席。(昭和46年連作長篇「長良川」で第64回直木賞受賞)」とあった。 さらに詳しく調…

 ● 作家の描いた「特殊潜航艇」(1)

「第2次世界大戦」については、数え切れないほどの本が書かれている。 ちなみに、わたしの本棚には、「海軍(特殊潜航艇)に関するもの」だけでも3冊ある。 上前淳一郎さんの「太平洋の生還者」と佐々木半九さん・今和泉喜次郎さん共著の「決戦特殊潜航艇…

「山本康久氏の証言」から(最終回)

追記:昭和47年4月27日、ハワイを再び訪れる機会を得て、真珠湾内アリゾナ記念館の上より、この海の底で静かに眠る戦友古野、横山両君の霊に花束を捧げ、冥福を祈って参りました。 昭和41年12月「ロータリークラブにおける講演速記録」より 鹿島建…

「山本康久氏の証言」から(71)

海軍では、たとえ上位の者でも、ライン以外の者は、一切口を出すことはできない。 口出ししたとしても、それは、あくまでも「アドバイス」であって、「命令権」はない。 一方、ラインの上役が言った場合には、その責任は、「上役自身」が取らなければならな…

「山本康久氏の証言」から(70)

六、責任と権限 責任を持たせるなら、同時に一部の(?)「権限」も与えなければならない。 もし、責任だけを持たせて、それに応ずる権限を与えないとすれば、「こんな非民主的なことはない」と、わたしは思う。 しかし、現実には、こういう民間会社は、案外…