「山本康久氏の証言」から(39)

「放送では、オーストラリア海軍の専門家が、船体の形状などから、昭和42年5月にシドニー湾を攻撃した2人乗りの特殊潜航艇という見方を示し、オーストラリアの国防相も、『日本とオーストラリアの戦争の歴史の一部として、重要な発見だ』と述べた。
 この作戦では、特殊潜航艇3隻のうちの1隻が、シドニー湾内に停泊していたオーストラリア海軍の宿泊用艦船に魚雷を発射し、兵士19人が死亡した。
ダイバ−7人によって発見された艇の全長は20メートル余りで、 映像では、船尾のスクリューや司令塔、魚雷の発射管などのほか、機関銃の弾丸が命中したらしい跡もあった。」と、記事は続いている。
 外国から攻撃を受けたことのなかったオーストラリアだけに、「国内の関心は高いもの」と、推定される。
(注:手元の資料によると、砲撃で損傷を受けてタスマン海の海底に沈んだとされる「伴勝久中尉と芦辺守一等兵曹の乗った艇」と思われる・・・)。