●「続・知られざる日豪関係」(431)

 〜 カウラ事件とは? 〜


 捕虜の生活


 作業

• 農業:トマト、ブドウの栽培、薪の為の伐採


 レクリエーション

 警備は緩く、オーストラリア軍は負傷者、栄養失調者などを含む捕虜に手厚く看護・介護、日本人は文化的スポーツであった野球、相撲、麻雀などのリクリエーション活動が自由に許され、野球のバックネットを運動場に建てる写真が残されている。


 状態

 収容所では"傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)" を日本人にも適用(当時、日本政府はジュネーブ条約を批准していない)していたが、日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず、当時の日本軍・日本人社会の ”生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方と、欧米(同じ枢軸国であったイタリアを含む)やオーストラリアの”国を代表して全力で戦った、名誉ある捕虜” という認識の相違により、オーストラリア人と日本人捕虜の間ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣訓などからなる日本軍人に固有の意識や、外交・国際関係の知識の不足による誤解が背景にある)。
 例えば、アフリカからのイタリア人捕虜が頻繁に家族に手紙を書いていたのに対し、日本海軍規範に述べられているように日本軍・日本人社会は捕虜を不名誉としていた為、捕虜になった日本兵の内7、8割は偽名を用いて登録(本名が本国日本に照会されて、自分の家族などが非国民の扱いを受け、村八分的差別にあう可能性を避ける為。実際、捕虜第一号となった酒巻少尉の家は非国民扱いされていた)自分の家族、本国に手紙を書くことは行わなかった。