●「続・知られざる日豪関係」(432)

 〜 カウラ事件とは? 〜


 契機


 1944年8月第1週、カウラの収容人数が大幅に定員オーバーした為に、将校・下士官を除く兵士を、400km西に位置するヘー(Hay, ニューサウスウェールズ州)の捕虜収容所に移すことを計画し、8月4日、ジュネーヴ条約の規定に基づいて移送の前日に、日本人捕虜に通達された。


 行動の思想的(心理学的)要素
• 建前と本音の乖離
• 優勢人種思想・外交・国際能力の未熟性に基づく、"名誉ある捕虜" の価値観の欠如
ジュネーヴ条約などの国際規範の、個人の理解の欠如と、日本海軍規範などを主とする、日本社会の集団心理
など、日本兵にとって下士官と兵の信頼関係は厚く結ばれたものであると言う理論に基づき、全体一緒の移送ならば良いが、分離しての移管を受け入れる事が出来ない日本兵はそれを "契機" として捕虜収容所からの脱走を計画する事になる。(以前から計画はしていなかった。)
 日本人はミーティングで、要求を受け入れるか、反対して脱走をするか の多数決投票を行い、 "移送計画へ協調しない=脱走" となる ('脱走へ非参加' への投票者も居た)
 この際、トイレットペーパーに移送受諾か否かを○×で行ったが、当時の集団心理としてのけ者になる、目立つことへの恐怖の心理が投票に強く働いてほとんどが脱走に賛成したことを現生存者は証言している。