●「続・知られざる日豪関係」(435)

 〜 カウラ事件とは? 〜


「脱走」の続き


 当時警備兵の証言: "日本人は何を考えているのか分からなかった。
 野球、相撲などのレクリエーションの自由もあったし、日本人は魚を食べるので、(オーストラリア人とは別に、特別に)魚を食事で支給されていた。
 脱走時の夜は田舎の満月で、とても明るく、人の影がよく見えた上に、わざわざ明るくなるように建物に放火をしたので、付近の様子が昼のように目視できた。"


 付近住民の証言:"脱走兵の2、3人が家の前にきて立っていた。
 母が「もうすぐお菓子が焼けるから食べて行きなさい」と迎え入れ、振る舞った。”


 多数の死傷者を出しながらも、捕虜収容所の敷地外へ脱出する日本兵もいたが最終的には全員捕縛された。
• 死者数:235名(オーストラリア人 4名、日本人 231名)
• 負傷者数:日本人 108名
 脱走者のリーダー達は、全員無傷
 第12捕虜収容所は、1947年のイタリア人・日本人本国送還まで運営された。