豪に入っては豪に従う

 

 
「そうでしょうか。仮に、私の行為が他人に迷惑をかけたり、オ−ストラリア社会の秩序を乱したりするものなら、私はあなたのおっしゃる通りにしますが、どう考えても、そんなことはないと信じます」私は反論した。
 「社会秩序」などという、ふだん使い慣れていない言葉が飛び出すあたり、私もかなり頭に血が上っていたようだ。「辛抱もここまで」と、傍らにいる女房を促して歩き出そうとした。
 バアさんは、そういう私を何とも悲しそうなまなざしで見つめていた。そして、突如視線を落としたかと思うと、次の瞬間には焦点の定まらない目で空を見上げ、まるで「神さま、お救いください」と言わんばかりの表情をして見せた。彼女は、静かな口調でゆっくりと言った。
「あなたは、オ−ストラリアにいる間は「一人の日本人」ではないのですよ。あなたは、いわば日本人を代表している方なのです。あなたのふるまい一つで、日本人全体が評価されるのですよ」
 こう言われて、私は踏み出したばかリの足にブレ−キをかけた。彼女が何を言おうとしているのか、はっきり理解できなかった。だが、何か大切なことを話しているらしい。
「すみませんが、もう一度おっしゃっていただけませんか?」
「あなたが日本の習慣に従って奥さんに荷物の世話をさせても、日本でならば何とも思われないでしょう。でも、ここはオ−ストラリアなのですよ。私の国では、女性に荷物を持たせて平気でいる男性は「野蛮人」と見なされるのです。私は、日本の習慣を少しは知っています。だから、必ずしもそうは思いませんが、もしあなたが奥さんに荷物を持たせて手ぶらで歩いている姿をこの国の人が見たら、ほとんどの人は「日本人って、なんて野蛮な国民だろう」と思うに違いありません。あなたがこの国でふるまうことは、たとえそれがあなた個人の流儀だとしても、「日本人全体が同じことをするものだ」と受け取られるかもしれません。それでは、この国での生活を十分にエンジョイされますように・・・。ではまたお会いしましょう」
 おばあさんは、きっぱりこう言い放つと、静かにその場を立ち去ろうとした。
 今度は私が引き止める番だった。私の頭の中は真っ白になったままだ。「とにかく何かを喋らなければ」と、必死になっていた。