18歳までは幸せだった?(1)

(初期のまとめ)

1971年から2年あまり、オ−ストラリアに住んだ。30年以上も前のことである。
 転勤の挨拶に行ったときのおじの言葉を思い出す。
「南方に行くんだって?ご苦労なことだね」。
 戦争体験者のおじには、オ−ストラリアは「ジャングルの延長線上の国」とでも思っていたのだろう。
 帰国してからも、いろいろな方々から同じような慰めの言葉をかけられた。
 近所に住む奥さんが、「未開の地に2年も行っておられたんですか?さぞかし大変だったでしょうね」と言われたときには、一瞬どう答えていいか迷った。
 当時のテレビのコマーシャルには、土煙を上げながら赤い大地を走り回る大型のダンプカ−と、ぴょんぴょん飛び回るカンガル−の姿が写し出されていた。
  オ−ストラリアへの転勤を知って、「音楽を聴くのが楽しみだわ」とおっしゃった奥様がいたとかいなかったとか・・・。
 「オ−ストラリアに行っていた」と話すと、「ヨ−ロッパは良かったでしょう」と答える方も何人かおられた。
 オ−ストラリアについては、この程度しか知られていなかったころのことである。
 ある意味では「古き良き時代」。日本人だけでなく、オ−ストラリアの人々もまた、お互いの国のことを良く知らなかった。
 なお、これから紹介する数字や生活様式などは当時のものである。










 オ−ストラリアを一言で言えば、「壮大なる田舎」「日本とは万事に対照的な国」と言えるだろう。赤道をはさんで、南と北、オ−ストラリアの国土の面積は、日本の21倍、人口密度1キロ平方メ−トル当たり2人以下、(日本は280人)。
 季節は逆で、日本の冬はオ−ストラリアでは、夏ということになる。
 日本は水に恵まれているが、オーストラリアは、世界で最も乾燥した国だ。
 一方、日本に乏しい鉱物やエネルギ−資源は、オ−ストラリアには豊富にある。
 日本には、中央政府は一つ。オ−ストラリアは、六つの州と二つの特別地域から成る連邦国家である。それぞれが独立国家の存在で、学校の義務教育の年限から、鉄道のレ−ルの幅やビ−ルのアルコ−ル濃度まで違う。
 オ−ストラリアは、世界最大の島大陸で、国土は日本の21倍あるのに人口は1、350万人。「広大な国土に、わずかな人間」が住んでいることになる。だから、牧場一つの大きさが鳥取県や東京都、大阪府全体、本州と同じ大きさのところがある。
 オーストラリアを東西に横断すると、列車で3泊4日、飛行機では4時間かかる。(ホンコン−東京間に相当?)
 もっと驚いたのは、オ−ストラリアの奥地に住むこどもたちは、「海を見るのが一生の夢」だという。
 2DKが独身者のスペ−スということからか、すべての点で日本人と発想が異なる。100年先、200年先の完成を目標に教会の建設資金を集めに来たのには、正直言って驚いた。寄付を募りに来た本人が、教会完成まで生きていることは考えられないからだ。「万事におおらか」ということか。
 週休二日制はとっくに実現されていた。年に最低3週間の、それも連続で取得する休暇が義務づけられている。
 飛行機の出発が9時間遅れても平然として待つ国民。「安全のためなら当然だ」と言う。この国営航空に遭遇した私には,直ぐには理解できなかった。(キャセイ航空がエンジントラブルで遅れたときには、乗客に迷惑料として10万円が支払われたという)。
 風邪を引いても、「風邪に効く薬はない」として当然の如く休みを取る労働者とそれを認める雇用者・社会。
 ゴルフは、「おしゃべり満載」ののんびりプレ−。
 あの有名なシドニ−のオペラハウス(貝殻状の建物)の着工は、1959年。完成したのは1973年10月。実に、15年もかかった。
 車のクラクションは、めったに鳴らさない。うっかり鳴らすと、それが病院や学校周辺だったら罰金を取られる。「クラクションを鳴らす余裕があるのは、ブレ−キを踏む時間があるはず」という論理だ。どこかの国では、クラクションは、警笛ではなく「歩行者も、ほかの車も引っ込め」という脅しに思えて仕方がない。
 その一方で、決められたことはきちんと守る。単一民族国家ではなく、「多民族国家・人種のルツボ」のせいだろうか。
 家の隣の公園で元気に遊んでいた子どもたちが、夕方5時になると潮が引くように姿を消す。
 休日など、子どもたちは朝8時前に外へ出て遊んではならないとされている。(欧米では「夕方6時以降は、犬をほえさせるな」という規則があるとも聞いた)。
 夜8時になると、子どもたちは自ら寝室にこもる。「8時だよ、全員集合!」と呼びかけられても、ふらふらと出てくることはない。(もっとも、その時間にテレビを見ることは許されていないし、日本のテレビが見られるはずがないので「当然」か・・・)。
 
 オ−ストラリアに住んで最初に戸惑ったのは、人口密度の低さでも、鮮やかな空の青さや恐怖を感じるほど多い星の数でもなかった。それは、人々の「のんびりとした生活ぶり」だった。
 
 複数の国歌をもつ国は決して珍しくないが、ある時期オ−ストラリアには国歌が四つあった。
 1972年12月の総選挙で、オ−ストラリアでは、それまでの自由党と地方党の連立内閣に代わって、23年ぶりに労働党内閣が誕生した。イギリスのEC加盟などで“イギリス離れ”が進んでいたことも反映してか、労働党内閣は、「現在の国歌は、独立国オ−ストラリアにふさわしくない」として、建国以来の国歌であった「ゴッド・セイブ・ザ・クイ−ン」に代わる国歌を決める国民投票を行った。そして「アドバンス・オ−ストラリア・フェア」が新しい国歌に決まった。
 ところが、75年12月、政権に返り咲いた自由党と地方党連立内閣は、イギリス王室のオ−ストラリア訪問のときは「ゴッド・セイブ−−」を必ず演奏し、それ以外は、労働党内閣時代の国歌「アドバンス・オ−ストラリア・フェア」と、国歌制定のための国民投票を行った際候補に上がっていた「ワルツイング・マチルダ」、「ソング・オブ・オ−ストラリア」の三つを、いずれも国歌として使ってよいと決めたのである。つまり四つの歌が国歌として認められたことになる。
 1976年、モントリオ−ル・オリンピックが開催されたとき、私はそれぞれの競技が決勝に進むたびに、そわそわと落ち着きのない状態に陥った。「もしオ−ストラリアの選手が優勝したら、四つのうちのどの国歌が流されるのだろうか」。
 ついに、いたたまれなくなりオ−ストラリアの関係筋に電話した。
 「ワルツイング・マチルダですよ。でも、どうしてそんなことお尋ねになるんですか。どの国歌が流れてもかまわないと思いますけれど・・・」。
 国歌が四つ存在する状態は、再び国民投票が行われ、前回同様「アドバンス・−−」が第一位に選ばれる77年5月まで続くことになる。(このアドバンス・−−」が正式に国歌となったのは、’84年4月11日。投票結果を無視して「ゴッド・−−」にこだわり続けた前政権に代わるホ−ク労働党内閣が閣議決定した)。
 
 先日、調べ物があって、オ−ストラリアのある政府機関を訪れた。そこで借りた本を帰りの電車の中で読んでいるうちに、私は思わぬところで“オ−ストラリア”に再会し、すっかりうれしくなってしまった。
 車内がかなり混んでいたため片手で本を支えていたのだが、電車が揺れたはずみで、一気に最終ペ−ジまでめくれてしまった。その裏表紙には、本の「貸し出しカ−ド」が張られていたのだが・・・。「返却日欄」には、なんと「2月29日」と記入されていた。
 ちなみに、今年は“うるう年”ではない。では、どうして? 
 私が本を借りたのが「2月15日」。貸し出し期間は「2週間」。つまり、単純に「2月15日に14日を足すと、2月29日」となる。係の人が「忙しさのあまり、ついうっかり?」。
 いや、オ−ストラリアの人々なら誰もがやりそうなことなのだ。
 ただ、何事にもこだわらないおおらかな“オ−ストラリア人気質”の一端をのぞかせたに過ぎない。 
 私がオ−ストラリアで暮らし始めたころのことだ。車を買おうと販売店に行ったものの、店員の姿が見えない。だが、店の奥の方では何か物音がしており、時折人の叫び声も聞こえてくる。
 恐る恐る“音”のする方向へ行ってみると、数人の男たちがテレビの前にくぎづけになっていた。
「すみません。車のことでお尋ねしたいんですが」と、私・・・。
「テレビが終わってからにしない? それよりも、一緒にテレビ見ようよ・・・」。
 テレビでは、ボクシングの世界タイトル・マッチを放送していた。
 
 
 
 私が住んでいたフラットに、週に一度掃除に来るおばさんがいた。
彼女が来るとすぐ分かる。フラットの住人をつかまえては大声で話しかけるからだ。
 たとえ掃除の最中でも、誰かと顔を合わせると仕事の手を休めて話し込む。そして、かんじんの掃除を忘れてお喋りに夢中になり、一定の時間が来るとさっさと帰ってしまう。
 だから、本来ならきれいになっているはずの階段や駐車場が、汚れたまま放っておかれてしまう。
 でも、フラットの人たちが、彼女の悪口を言うのを聞いたことはなかった。
 人口が少なく、「労働者不足」という事情があるからかもしれない。
 このおばさんに限らず、銀行の出納係やス−パ−のレジ、路面電車(トラム)の車掌さんなど、仕事中でも平気でお喋りをする。
 銀行の窓口などで順番を待つ人にとっては、「迷惑この上ない」と思うのだが、お客の方はまったく気にする様子がない。こちらの方はこちらの方で、適当な話し相手を見つけてはお喋りに興じる。(初めのうちはイライラした。銀行に口座を開くのが「一日がかり」というのにはあきれてしまった。だが、不思議なもので、何回か“お喋り”にお付き合いしているうちに、すっかり慣れてしまった。日本人の私が、一人でこの国の習慣を変えることなどとても不可能だと悟ったから・・・。
 いつの間にか、「待つこと」が少しも苦にならなくなっていた。
 何とも、のんびりしたお国ぶりである。
 「世界一話し好きな国民と言われるだけのことはある」と、ただただ感心?した。
 日本の二十倍以上という広い面積を持つ土地に、わずか1、550万人しか住んでいないオ−ストラリア。オ−ストラリア人のこのおおらかさは、国土の広さとまったく無関係ではあるまい。
  オ−ストラリアを、単なる「資源供給国」としか考えていない日本。
 一方、「日本学の博士号」を持つ人が30人以上もいるオ−ストラリア。
 日本人とオ−ストラリア人の相違のすべてを、国土の広さの違いだけに求めるのは、必ずしも現実的ではないと思えるのだが・・・。 
 (注)ここで、思い出したことを一つ・・・。
「お喋り好きは、オ−ストラリア人の専売特許ではない」ということだ。
 転勤で、金沢市郊外のN町役場に住民登録の手続きに行ったとき、地元のおばあさんと町役場の職員とが世間話に花を咲かせていた。二人の会話は延々と続き、長時間待たされた。
 そのとき、「一日に一箇所でしか手続きできないのは、日本でも同じなんだな」と、妙に納得したことを、今でも鮮明に覚えている。
 ちなみに、オーストラリアでは万事がこの町役場と同じで、一日で、電気やガス、水道、銀行、お役所などの手続きを済ませようと思ったら大間違い。
 「一日に一箇所ずつ」がやっとだった。 

 
  腰を傷めてから、もう20年以上もゴルフをしたことがない。だから、バブル以降の日本のゴルフ場がどうなっているかはさっぱり分からない。だが、一時期、日本では、ゴルフ場が「混雑の代名詞」になっていた時代があった。
 そのころ、オ−ストラリアのゴルフ場では、“のんびり”という言葉がぴったりの光景が見られた。
 ティ−ショットが打ち終わった瞬間から、フェアウエ−でのお喋りが始まる。
 間もなくして、先行組は全員ホ−ルアウト。グリ−ン上から、プレ−ヤ−の姿は消えた。
「前があいたぞ。もう打ってもいいんじゃない?」
 話しが一区切りついたところで、私はパ−トナ−に声をかけた。
 一緒に回っている一人は、ショ−トアイアンを手にしてはいるものの一向にアドレスに移る気配がない。
「何を言ってるんだ。おれたちの話し、まだ済んでないじゃないか。
 ところでさあ、あのあとが大変だったんだよ。実は、ジョ−のやつがさあ・・・。」
 とにかく、長話が続くのだ。
 このお喋りは、ミスショットしたボ−ルを探そうと、みんなでブッシュをかき分けているときでも同じだ。ボ−ルを探しながら、ペチャクチャペチャクチャ・・・。
 後ろから、次の組みのプレ−ヤ−が打ってくる心配など一切ないからだろう。
 ゴルフとは縁のない会話を楽しみながら、マイぺ−スでカ−トを引き、「笑いカワセミが鳴き出した」と言ってはプレ−を中断してその行方を追い、「へびがいた」と言えば、その声の主のところへ駆け寄って、みんなで遠巻きになってのぞき込む。
 あるオ−ストラリア人が、こんな話しをしていた。
「月曜日は、ロストボ−ルがたくさん見つかるんだ。」
「どうして?」
「日曜日にはね、ここのゴルフ場で日本人がよくコンペをやるからさ。多分、彼らはボ−ルよりも速く歩いているんじゃないのかね・・・。」
「・・・」
(注) ゴルフについて思い出したこと。
1 帰国してゴルフをしたとき、みんなから「プレ−が遅い」と叱られた。「ゴルフって、苦痛を楽しむものですか?」と、思わず聞き返したくなってしまった。だが、“混雑する日本のゴルフ事情”を考えれば、これは当然私が悪い・・・。
2 「ブ−ビ−賞」は、彼の国では一番成績の悪いプレ−ヤ−に与えられるのに、日本では、どうして「下から2番目」なのでしょうか?
3 ウッドを一本も持たないお年寄りとプレ−したことがあった。「年を取ったので、ウッドで打つのは難しいから」と話していた。これは、許される?
4 私が1番ウッドを持っているのを見て、「あなたはプロですか?」と、何人もの人々から質問された。聞けば、「素人は3番ウッドからですよ」とのこと。
 1番ウッドを持っている人は、ほとんど見かけることはなかった。
5 日本人グル−プがコンペの後、パブリックのゴルフ場の狭い食堂(サンドイッチやソフトドリンクを売っているだけのお店)を独占して、表彰式をしている光景をよく目にした。
 よその国の、それもパブリックのゴルフ場で、なぜ日本式の表彰式をしなければならないのでしょう・・・。
6 メルボルンの金持ちは、「ゴルフよりもスカッシュを楽しむ」と、親しくしていた若者から聞いた。
 
 

 オ−ストラリア人はユ−モア好きな国民だ。いつでもどこででも、人が集まりお喋りしているところでは、笑いがあふれている。けわしい目つきをした人をこの国で見つけようとするのは難しい。生まれついての楽天家揃いなのか。あるいは、与えられた人生を精一杯楽しく生きようとする人たちばかりなのであろうか。
 会話の最中には、ひっきりなしにジョ−クが飛び交う。
 この国民性は、今に始まったことではないようだ。
  
 ディモ−リンは、決闘相手の冷静な様子に気づいたとき、ふと我に返った。
 相手は目に笑みを浮かべている。まるでふだんと変わらないおだやかな表情だ。これから生命のやりとりをする人間とはとても思えない。
「何てバカなことをしちまったんだろう。相手のケネデイ閣下は、名うてのピストルの名手。それにひきかえ、自分はピストルの扱い方をなんとか知っている程度の腕前でしかない・・・。」
 彼は悔やんだ。「つまらない意地を張ったばかりに、勝ち目のない決闘をどうしてケネデイ閣下に挑んでしまったのか・・・。」
 1843年のある日。メルボルンの中心街のロンズデ−ル・ストリ−トとスペンサ−・ストリ−トが交わる辺りの広場は、大勢の見物人でごったがえしていた。
 決闘するのは、ギルバ−ト・ケネデイ閣下とジョ−ジ・ディモ−リン。
 両者は、介添役とともに、約束の時間に、きちんと命をやり取りする場に姿を現わしていた。
 両者は今静かに向かい合っている。
「この静けさは何だ。空がヤケに青くて目しみる。のどが渇く。胸が苦しい・・・。」
 ディモ−リンは、心の中で叫んでいた。
「打て!」
 非情にも、合図が下された。たちまち二丁のピストルが火を吹いた。
 一瞬立ちのぼる硝煙のかげから、両手で頭を抱えるディモ−リンの姿が現われた。
「私は死んでしまう。頭を打ち抜かれた!」
 ディモ−リンは、自分の手からしたたり落ちる真赤なものを見て、こううめくとバッタリと倒れてしまった。
「おれは、なんて哀れなやつなんだ。つまらない意地を張ったばかりに命を落とすなんて・・・。見物している人たちも、気の毒に思って同情してくれているだろう・・・。
 それにしても、人間が死んで行くってこんなものなんだろうか。なんの痛みも感じない・・・。」
 次の瞬間、彼が耳にしたのは、見物人の大きな笑い声だった。
 みんなが、腹を抱えて笑い転げている・・・。
「やつは死んじまうって言ってるぜ、アッハッハッハッ・・・。」
「とんまなやつだ。死のうたって死ねるものか、なあ、みんな!」
 この勝負は、最初から決まっていた。
 そこで、ケネデイ閣下は、ディモ−リンを無駄死にさせない方法を友人に相談し、ある「いたずら」をたくらんでいたのである。
 ディモ−リンのピストルには、空の薬きょうが、一方の閣下の“運命の一発”には、実弾の代わりにイチゴジャムが詰めてあったのだ。
 かくして、十九世紀のオ−ストラリア社会で笑いの渦をまき起こした“無血の決闘”は、あっけなく終わった。
ABCラジオより) 



 そろそろ梅雨明けも間近。ビ−ルのおいしい季節がやってくる。
 そういえば、オ−ストラリアの人々が一番好んで飲んでいたのはビ−ルだった。
 次いで、ワイン。オ−ストラリアには、おいしいワインを製造するワイナリ−がたくさんある。逆に、ウイスキ−を飲む人は少なかった。彼らに言わせると、「胃をやられるからだ」とのこと。
 我が家で何回もパ−ティを開いたが、バスタブ(日本のものより2倍ぐらい大きい洋式浴槽)に水を張ってブロックアイスを入れ、何ダ−スものビ−ルをぶち込んで冷やして来客に備える。冷蔵庫一つでは、とても間に合わないからだ。
 オ−ストラリアのビ−ルは、アルコ−ルの度数が高い。日本酒並み、いやそれ以上だったと記憶している。(ここは大事なポイント。ぜひ、記憶にとどめておいてほしい)。
 吉田健一さんと高城明文さんが書かれた「ロンドンのパブ」によると、「イギリスを訪れた旅行者でパブに足を踏み入れない人はいない」ということだが、実はオ−ストラリアでも、パブ大きない存在だ。
 かつて、山陰のT市に勤務したとき、「タチキュウ(立ったままキュ−ッと飲む意味か?)」という酒店店頭での一杯飲み屋のお世話になったが、オ−ストラリアのパブは大分様子が異なる。
 お酒(主にビ−ル)だけでなく軽食も用意されていて、昼食をここで取る人も少なくない。
 「パブ」は、正しくは「パブリック・ハウス」、または「パブリック・バ−」とも言われる。日本では、お酒の飲めるところはいたるところにあるが、オ−ストラリアではそうはいかない。限られたレストラン以外に「酒が飲めるところ」といえば、このパブしかない。キャバレ−やクラブなど、当時はほんの数えるほどしかなかった。だから、オ−ストラリアの男性にとって、パブはなくてはならない社交の場であり、貴重な憩いの場でもある。
 ここには、あらゆる職業の人々が集まってくる。


 オ−ストラリアのパブは、イギリスとは違って独特の発展をしてきたようだ。
 建築学的にみても興味深い。オ−ストラリアでは、時代の最先端を行く建物はパブだった。メルボルンの郊外にある金鉱で有名なバララットの町には、ゴ−ルドラッシュ華やかなりしころ、四階建ての豪華なパブが出現して当時の人々のどぎもを抜いたという。
 パブと言えば、「汗まみれの格好でも気軽に入れるところ」だが、以前は少し違っていたようだ。オ−ストラリアで初めて演劇が上演されたのも、最初の新聞が発行されたのも、実はパブだった。オ−ストラリアで1番初めに開店した銀行はパブの2階を使ったものだったし、美術館として活用された時代もあった。このほか、メルボルンの図書館の第1号は、パブの中に作られている。
 そればかりか、政治活動や労働(組合)運動、宗教活動なども、パブの中で生まれた。
 植民地時代に、石炭や小麦、木材などの取り引きが行われたのもパブだったという。
 そもそもこのパブは、ニュ−・サウス・ウエルズ州がまだイギリスの植民地だったころ、州都のシドニ−で、誰かがたまたまラム酒を売ったのがきっかけで誕生したものだ。
 いずれにしても、アルコ−ル抜きでオ−ストラリアを語ることはできない。ということは、同時にまた「パブ抜きでオ−ストラリアを語れない」ことになる。
 パブは、日本のサラリ−マンが「ちょっと、お茶でも・・・。」と、気軽に立ち寄る喫茶店のようなものだ。アルコ−ル以外の飲み物もあるし、食事をすることもできる。レストランの半分ぐらいの値段で食べられるので、パブで昼食を取るサラリ−マンも多い。
 夕方になると、「一杯引っかけて帰ろうか」と、サラリ−マンが殺到する。
 言ってみれば、喫茶店に行くような気分で行けるレストランであり、“縄のれん”でもあるのだ。
 ただし、この国の縄のれんの「すさまじさ」には圧倒される。



 パブは、以前は夕方の6時までしか営業していなかった。だから、勤めが終わる午後5時前後からサラリ−マンたちが一気に押し寄せ、「蜂の巣をつついたよう」な状態になる。
 パブで一杯ひっかけた人々が、閉店時間の6時になると一斉にハンドルを握って家路を急ぐ。当然、交通渋滞が起こる。そのせいかどうか定かではないが、夜の10時まで営業するようになった。
 パブでは、ほとんどの人がビ−ルを飲む。コップ一杯で80円(当時)足らず。これを互いにおごり合うならわしがあるから、二人で行けば最低2杯。5人で行けば5杯。10人で行けば10杯も飲むことになる。日本酒と同等、いやそれ以上にアルコ−ル分の強いこの国のビ−ルを、ふつうはカウンタ−の前などで立ったまま飲まなければならないのだ。
 お酒にはめっぽう強いオ−ストラリアの猛者ども、いや紳士たちを相手に、私はダウンすることなく過ごすことができた。このときばかりは、「飲んべえ」に生んでくれた親に感謝したい気持ちになった。
 郊外のパブに行くと、近くのコインランドリ−に洗濯ものを放り込んで、これが仕上がるまでグイグイやっている客がいる。そうこうしているうちに、隣の客との会話がはずみ過ぎて洗濯もののことは記憶の彼方に去ってしまうのだろう。真っ赤な顔をしたおっさんが、乾燥機のお世話になる必要がないほどカラカラになって洗濯機に絡みついている洗濯ものを、あたりをはばかるようにそっと取り込む光景を何度も見た。
 パブには、「ボトル・ショップ」の看板を掲げて酒類を販売しているコ−ナ−のあるお店もある。だから、用心深い人は洗濯ものを放り込むなり、ボトル・ショップに出かけて冷えた缶ビ−ルを買い求め、洗濯の終わるのをジッと待つ。「頭のいい」パブの愛好者?
 とにかく、この国にも、いろいろな酔っ払いがいる。



 パブに入って驚くのは、耳をつんざくような人の声だ。特に、夕方はものすごい。「ウォ−ン」と、パブの建物全体を揺るがすように反響する。こんな騒音の中でお喋りをするのだから、“会話を楽しむ”ことなど、とても無理だ。いきおい、みんなが大声で話す。
 とにかく、「この上なくすさまじい話し声」なのだ。いくら“賑やかなところが好き”な私でも、しらふだったら、ものの5分も耐えられなかったに違いない。
 やはり、勤めが終わって家に帰るまでの時間を、十分に満喫したいのだろう。この解放感とアルコ−ルとが、お喋り好きの人々の舌の回転をますますスム−ズにさせる。
 オ−ストラリア全国で、パブは6、000軒以上(当時)あった。このパブも、日曜日は休業となる。メルボルンの州都・ウ゛ィクトリア州は非常に保守的で、“日曜開店”などを口にする人々はほとんどいなかった。
 ところが、シドニ−のあるニュ−・サウス・ウエルズ州になると、ちょっと話しが違ってくる。この州では、1969年11月に、パブの“日曜開店”の是非をめぐって住民投票が行われた。だが、その結果は“想定外”に終わった。有権者240万人、投票総数200万票。このうち日曜開店に賛成するもの42%、反対するもの58%だった。「日曜日ぐらいは、胃袋を休ませてあげなさい」という意見?が多かったのだ。
 だが、日曜日でもお酒の飲めるところはある。酒類の販売を許可されたレストラン(前に、「限られたレストラン」と書いたが、それはこの「ライセンスド・レストラン」のこと)や航空機・船など乗り物の中だ。こういうところでは、どこでもアルコ−ルが飲める。なにしろ、小さな遊覧船の中でもお酒を売っているバ−が必ずある。飲んべえにとっては、まことに都合よくできているのだ。
 「オ−ストラリア万歳!」・・・。
 (注) 思い出したこと
 昼間からアルコ−ル濃度の高いビ−ルを飲むのだから、当然午後は仕事にならない。職場間をめぐり歩く「お喋りタイム」となる。正確には覚えていないが、サラリ−マンの出勤時間はかなり早く、昼食を取る時間も午後1時過ぎだったと記憶している。一方で、彼らの午前中の仕事の集中ぶりには驚いた。無駄なお喋りは一切せず、仕事に没頭する。
 夕方パブで過ごした人々の車に出合うのは怖かった。お尻を左右に振リながら走る酔っ払い運転の車が堂々とまかり通っていた・・・。



 ミニスカ−トから、すんなりと伸びたきれいな脚。思いっきり短いミニだ。パブに入ってきたその若いOLらしき娘さんは、コップ片手にダベリまくっている男性たちをかき分けるようにしてカウンタ−に行き、チケットを買い求めた。
 昼食を取るのだろう。テ−ブル席が設けてあるコ−ナ−ヘ行った。その一角には、じゅうたんも敷いてある。ウエイトレスにチケットを渡してから彼女は席を立ち、再びカウンタ−へ・・・。
 両手に、なみなみとビ−ルの注がれたコップを持って席に戻ってきた。そして、コップをテ−ブルに置いてゆっくりと腰を下ろしたかと思うと、ビ−ルを「ゴクゴクゴク・・・。」
 続いて、もう一つのコップを口に運んで、これまた一気に「グイ−ッ!」。
 私はびっくりしてしまった。うら若き女性が、真っ昼間からビ−ルを飲んでいるのだ。それにしても、なんというみごとな飲みっぷり!
 その彼女は、ハンカチでちょっと口をぬぐってファッション雑誌を取り出し、熱心に見入っている。やがて、注文した食事が運ばれてきた。
 彼女は、このパブでたっぷり1時間かけて昼食を済ませた。
 パブで食事をするには、パブと客との間に“暗黙の約束ごと”がある。パブでの昼食は「カウンタ−・ランチ」と呼ばれる。この名前からも分かるように、もともとはカウンタ−の前で立ち食いするものだった。だから値段も安い。今では「値段が安い」という利点はそのまま残して、立ち食いではなくテ−ブル席で食べさせてくれるパブも増えた。
“暗黙の約束ごと”のもう一つは、「カウンタ−ランチを食べる際には、最低コップ2杯のビ−ルをオ−ダ−すること」。若いOLがビ−ルを2杯引っかけたのに驚いた私だが、後で友人からこの“約束ごと”を教えられて、「なるほど」と納得した。
 (注) その後日本も変わり、「焼酎をあおる女性も珍しくなくなった」とのこと。今だったら、この超ミニ姿のオ−ストラリアのOLの飲みっぷりにも、少しも驚くことはない・・・。



 現在では女性も気軽に入れるパブだが、以前はそうではなかった。これには、“聞くも涙、語るも涙”の物語りがある。
 この国の男性たちは、オ−ストラリアン・ハズバンド、つまり「女性に頭が上がらないこと」で知られている。どういう訳か、オ−ストラリアでは女性の方が男性よりも“大きく”見える。男性がからっきし弱いせいかどうかは分からない。そういうオ−ストラリアで、その“大きな存在である女性”を、おそれおおくも「閉め出す」ところがあった。それが、この「パブ」だった。パブは、男性にとって女性から解放されることのできる「最後のとりで」だったのだろう。
 男だけしか入れないようにしたのは、男に生まれたことを喜ぶ唯一の場にしたかりではない。常に女性に頭をおさえられているこの国の男性たちにとって、パブは「生きる勇気と希望を与えてくれるところ」だった?だからこそ、ここから芸術が生まれ、ここで新聞が発行され、政治が論じられたのだろう(と勝手に推測する)。
 ところが、この男性陣最後のとりでも、ついに“ウ−マン・リブの闘士たち”によって陥落させられることになる。彼女たちは、“パブの門戸開放”を叫んで世論に訴え、実力行使を繰り返した。勇敢にもパブの内部に攻め入り、鎖で自分の体を建物の柱に縛り付け、追い出されるのを拒んだ女性もいたという。
 かくして、パブは女性にも開放されることになった。男性軍の完敗である。そればかりではない。1970年の11月、シドニ−では歴史的な事件が起きた。


● その事件とは?
 シドニ−のあるパブの主人が、親切心から、「うちには女性用のトイレがないので・・・」と、訪れた女性客を丁重に断った。シドニ−と言っても、郊外にある小さなパブのこ。しかも、長い間男性しか入れない場所だった。女気がまったくなかったのだから、「女性用のトイレがい」というのは本当のことだろう。
 するとこの女性客、
「女性を差別するとはナンタルコと!亭主族をダメにするパブなんて、ぶっつぶせ!」と、わめき始めたのだ。
 その場は何とか女性客をなだめたが、この話しを伝え聞いたウ−マン・リブの闘士たちは黙っていなかった。
 シドニ−市内のパブに片っ端からデモの攻勢をかけ、“パブをつぶしてしまえ!”と、シュプレヒコ−ルを繰り返した。不幸なことに、そのうちの一軒では、建物の内部に乱入した女性がビ−ル瓶をたたき割って、バ−テンダ−にけがさせてしまった。
 女性がパブで堂々とお酒を飲めるようになった背景には、このような涙ぐましい武勇伝があった?・・・。
 こと腕力にかけては、この国の女性たちは“男勝り”に生まれているようだ。また、胃袋が弱ければ“パブの開放”など望むはずもない。アルコ−ルには自信のある私でも、この国の女性たちの飲みっぷりには感動?さえした。(同時に、恐ろしくも感じた。ビ−ル瓶でけがをさせられたバ−テンダ−がかわいそう・・・)。





 メルボルンを語るとき、「天気」について触れておかなければならない。ロンドンには「一日に四季がある」と言われるが、メルボルンも同じで、日ごとに四季がある。
 クリスマスを間近に控え、近くの公園でチャリティ−のキャンドル・サ−ビスが行われた。
 オ−ストラリア人の親友が、「夜なので、コ−トを持って行った方がいいよ」と、アドバイスしてくれた。だが、「いくら夜だといっても、真夏のことじゃないか。なんてオ−バ−な・・・」。私は、この親友の言葉を無視して、コ−トは持たないまま、軽装で出かけた。
 やがて、公園でのチャリティ−は、市の音楽隊による演奏が一段落し、市長がチャリティ−に参加した市民たちにお礼の挨拶を始めた。この市長の挨拶の最中、私は寒さに震えていた。
 南風が強い。公園だから、風を遮るものなど見当たらない。南極からの冷たい風が、容赦なく私の体から熱を奪っていく。さすがに、みんな土地っ子で慣れているのか、コ−トを着たり、毛布にくるまったりしている。“寒さに対する備え”は万全だ。
 市長の挨拶が済んで、みんなとクリスマス・キャロルを歌いながら、私は相変わらず貧乏揺すりをして寒さと闘っていた。
 帰り際、隣の席に座っていた親友が、一緒に参加した仲間たちにこう言った。
「今夜は、オ−ストラリアには珍しい地震があったようだ。それも、ずいぶん長く続いていたね・・・」。



 私の家の前は、小学校への通学路になっていた。毎朝、子どもたちが元気に登校する姿を見るのは楽しい。低学年の子どもは、どことなくおどおどした感じで道の端を歩く。これに対して、高学年の子は友だちと道いっぱいに広がって「わが者顔」で歩いている。真夏の子どもたちの服装は、半袖シャツに、男の子は半ズボン、女の子はスカ−ト姿だ。
 ところが、不思議なことに、どの子の腰にもセ−タ−がきちんと巻き付けてある。(何年か前に、渋谷のセンタ−街でよく見かけた光景だが、このファッションは、30年も前からオ−ストラリアで流行していた?)。
「汗が流れるほど暑いのに、なぜセ−タ−が必要なのか?」。私には、不思議に思われた。
 これが決して「不思議でないこと」は、間もなく分かった。私自身が「風邪を引く」という代償を払って・・・。
 メルボルンでは、南極気団の動きによって「ク−ルチェンジ」という現象が起こりやすい。すると、短時間のうちに気温が摂氏で15度も下がるのだ。
 たとえば、1973年2月2日の午後7時に36度もあった気温が、2時間後の9時には21度まで下がってしまった。セ−タ−でも着なければ、風邪を引くのは当然だ。
 メルボルンで、H県の物産展が開かれたときのことだ。担当者が着ていたのは、典型的な「日本の真夏の服装」だった。この軽装ぶりに驚いて、私は「すぐに厚手のシャツを買うよう」勧めた。10月の末で、春とは言っても夜はかなり冷え込む日もある。この日のように曇っていれば、日中でもH県のスタッフは肌寒く感じていたに違いない。彼らは、慌てて洋服店に飛び込んだ。
 聞けば、日本の大手の旅行代理店から、「オ−ストラリアは一年中暑いから、夏の服装で十分だ。」と言われたとのこと。当時は、大手の旅行代理店でも、オ−ストラリアについては「この程度の知識」しかなかった・・・。



 ● 「ク−ルチェンジ」の続き
 オ−ストラリア大陸は、北部の三分の一が熱帯に属している。だから、この地方は一年中暑い。日本の夏の服装でも平気だ。
 だが、オ−ストラリアは大きな陸地だ。最も暑い月の平均気温は、シドニ−では22度余りで湿度72%、メルボルンは20度、湿度は64%だった。
 私の住んでいたメルボルンは、雨の日が多かった。「弁当を忘れても傘を忘れるな。」と言われる日本の北陸や山陰地方の天気を、よく思い出していた。まさに「何とか心とメルボルンの空」なのだ。だから、久しぶりに「おてんとうさま」を見ると、人々の表情は急に晴れやかになる。いや、「明日は晴れるでしょう」というお天気キャスタ−の言葉を聞いた瞬間から、人々の顔は明るくなるのだ。特に、週末ともなると、なおさらである。
 太陽が出るかどうかによって、人々の行動は左右される。冬でも、よく晴れて風さえなければ、海でサ−フィンを楽しむ若者やヨット遊びをする人々の姿が見られる。
 だから、一日に四季はあっても、一年を通じて春夏秋冬の訪れを見分けるのは難しい。
 湿度の低いメルボルンでの生活は、快適そのものだった。日本人が最も快く感じる湿度は60%というから、気温の高い真夏でも苦にならない。
 メルボルンでの生活で、“かびにお目にかかることはまったくなかった。この国でビ−ルが格別おいしく感じられたのも、あるいはこの乾燥した気候のせいかもしれない。
(注) 思い出したこと
 真夏には、摂氏40度を超える日もあった。だが、ク−ラ−を使う家庭はほとんどなかった。緑が豊かなことと天井の高い建物が多かったため、いったん風を通すと室内の気温はあっという間に下がる。「暑くて眠れない夜」や、東京のヒ−トアイランド現象のような「不快な夏」に出合ったこともなかった。(25年間に渡って東京の夏の気温を観測しておられる東北大学の齋藤武雄教授のシミュレ−ションによれば、「2030年には、夕方の5〜6時になっても、気温が42〜43度のまま下がらなくなるだろう」という。日本の夏のヒ−トアイランド化は、ますます進んでしまうのだろうか?)。
 当時のオ−ストラりでは、40度を超える日中でも、日陰に入るとさっと汗が引いた。かんかん照りの天気でも、「暑くてたまらなかった」ことはない。
 一方で、冬は暖房のお世話にはなった。部屋に備え付けられていた「電気による暖房」だ。南極からの風が吹きすさぶ日でも、「寒くて震えた」経験もない。




 「家事や育児など家庭内にかかわる仕事のすべてを手際よくこなし、それでいて、なぜか女房に頭の上がらない男ども・・・」(私の独断と偏見?)。
 オ−ストラリアン・ハズバンドの存在は、世界中に広く知られている。
 私が実際に出会った「オ−ストラリアン・ハズバンドの素顔」を紹介する。
 オ−ストラリア人の友人のほとんどは、工作室と物置きとを兼ねたガレ−ジを自分の手で作っていた。中古の家を安く手に入れ、自分一人でコツコツと「みごとな別荘」に改装した友人もいる。庭にバ−ベキュ−用の炉やごみの焼却炉を作ることなど朝飯前の仕事だ。中には、器用にもビ−ルまで作る友人もいたが、味の方は「?」だった。
 バ−ベキュ−にかけては、「オレの右に出る者はいない」と豪語する友人もいた。とにかく、この国の亭主どもは信じられないほど「まめ」に働く。
 私は幸い2年余りでこの生活から解放されたが、「365日×結婚年数」を考えれば、「この地獄?によく耐えている」と、ただただ敬意を払うばかり・・・。
 だが、この国の友人たちと付き合ううちに、いつの間にか彼らの生活ぶりに違和感を抱かなくなっていた。慣れとは恐ろしいものだ。それどころか、私自身のオ−ストラリアン・ハズバンド化も日ごとに進み、ついには友人たちを見習って、自分専用のエプロンまで買い求めた。
“日本男児にあるまじき行為”だが、ホ−ム・パ−ティ−が「お開き」になったあと、男の客全員がその家の主人を手伝って後片づけ(皿洗いなど)をしているのに、私一人だけがご婦人方と飲み続ける訳にはいかなかった。ご婦人たちの宴会は、この後も盛大に続き、男どもの用意した“アガリの紅茶”をいただいてやっと閉会となる。
 楽しそうに喋りまくり飲み続けるのは、あくまでも「女性たち」なのだ。(月に一度、朗読奉仕に行っている老人ホ−ムの皆さんにこのお話しをしたら、ほとんどの方が「とても信じられない」という反応を示された。中には「今度生まれるときには、オ−ストラリにしようかしら」とお答えになった方も何人かおられた)。
 初めてこの国のホ−ム・パ−ティに出席したときは、「がく然」とした。「こんな世界が本当にあるのか、夢でも見ているのでは?」・・・。



「遅かったじゃないか。待ちくたびれたぞ」。こう言い終わるか終わらないうちに、電器店を営む友人は、ウイスキ−の入ったグラスをさっと私に差し出した。
 彼とは、親友の別荘でのバ−ベキュ−・パ−ティ−以来のおつきあいだ。私がウイスキ−を好むのを覚えていたようだ。すかさず、ビ−ルの入った自分のグラスを手にして、玄関先で二人で「乾杯」する。
「やあ、よく来てくれたね」。この家の主人の親友が、エプロンで手を拭きながら出迎えてくれた。彼こそが、この日のパ−ティを企画した“張本人”である。子どもたちは夏休みなので家族みんなで涼しい別荘で休暇を過ごしていたのだが、前夜に一人で、いや正しくは愛犬とともに家に帰っていた。その瞬間から、彼の大活躍が始まっていた。
 ラウンジ・ル−ムの方からは、すさまじい話し声が響き渡ってくる。私は急用を済ませた後、実はこのパ−ティ−に参加すべきかどうか迷った。「この国で、本当に男だけのパ−ティ−なんて本当に許されるのだろうか。いつものジョ−クでは?」と思ったからだ。だから、少し時間をずらして、半信半疑で参加したのだ。
 パ−ティ−が始まって、すでに3時間は過ぎていた。確かに、参加者は男ばかり。みんな、かなり「出来上がって」いる。話し声というよりも、「ウォ−ン」という反響音になって聞こえてくる。
「大盛況のようだね」と親友に話しかけると、
「いや、すさまじいかぎりだよ。とにかく、オ−ストラリア・ディを祝うにふさわしい雰囲気だ。さあ、早くあちらへ行ってみんなと飲もう」。

 毎年1月26日は、「オ−ストラリア・ディ」だ。1788年のこの日、イギリスのア−サ−・フィリップ海軍大佐が、千人余りの部下と流刑囚、それに何頭かの家畜を連れて現在のシドニ−付近に上陸した。それを記念するのがオ−ストラリア・ディ、「オ−ストラリア建国記念日」である。
 毎年この夜、親友の弁護士の家では、“カカア天下”の国にはきわめて珍しい“男だけのパ−ティ−”が開かれる。ただし、これは一般的な習慣というよりは、親友とその仲間たちだけの行事と考えた方がよさそうだ。