「山本康久氏の証言」から(21)
「わたしが、このことを電報で知ったのは、12月10日か11日、『特潜の収容地点』で艇員の帰りを待っていたときだった。
捕虜になった事情はわからなかったが、当時は、理由のいかんにかかわらず、『捕虜になることは認めない時代』であった。
だから、『気の毒で、かわいそうなことをした。困ったことになった』 と、複雑な気持ちになった。
酒巻少尉は、捕虜になった後、アメリカ各地の捕虜収容所を転々と移されるうちに、何度か自決しようと試みたという。
彼が捕虜になるまでの悪戦苦闘の状況、また捕虜になってからの『死以上の苦しい心境』を想像するとき、涙なきを得ない。
酒巻艇の母潜伊24潜の艦長・花房博志中佐は、その後、シドニー特別攻撃隊にも参加して大いに活躍したが、昭和18年6月、北洋アッツ島付近で、艦と運命をともにした。
彼は、生前、『酒巻少尉が捕虜になった責任』を感じて、ひどく心を痛めていたようだった。」
(以上、当時の司令・佐々木半九さんの書かれた「決戦特殊潜航艇」より要約)。