「山本康久氏の証言」から(29)

 

 わたしたちは、「もし、わが機動部隊を追って敵の艦隊が出動したら、湾口を取り巻く親潜水艦がこれを攻撃する作戦」を立てていた。
 ところが、機動部隊の攻撃が「大なる功」を奏して、敵は追撃してくるどころの騒ぎではなかった。
 当時の特殊潜航艇は、終戦間際に作られた「人間魚雷」のような「不帰の(生きては帰れない)もの」と違って、「搭乗員は収容すること」になっていた。
 だが、現実は厳しかった。
 一たび湾内に入ると、敵は出口の防戦網を閉めてしまい、脱出は不可能となる。
 ハワイのときも、一応ラナイ島の西方7マイルの地点で、湾内から脱出してくる乗員を収容しようと、親潜水艦が一晩じゅう待機していたが、残念ながら、一隻も帰還することはなかった・・・。