「山本康久氏の証言」から(33)

 
 特潜の性能からみて、「もはや、乗組員の生存の見込みはない」と判断し、捜索を断念する。   
 わたしの艦には、14サンチ砲を積んでいたので、「弔い合戦」の意味で、6月7日に、シドニー市街を攻撃することになった。
 湾の入口が丘陵になっているため、潜水艦からシドニーの市街地を見ることはできない。
 海上から見えるのは、丘陵の切れ目にある大きなダイヤモンド・マークの付いた「太鼓橋」だけだった。
 その太鼓橋に向けて、1万5千メートルのところから、弾丸を撃ち込んだ。
 大きな街のあちこちから、火の手が上がる。
「火災保険や生命保険に加入する者が、急に増えた」というオーストラリアのニュースを、「内地のラジオで傍受した」と、われわれに知らせが届いた。
 これには、次のような「後日談」がある。