●「続・知らざる日豪関係」(65)
〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜
「第一次、第二次の二波攻撃で、延べ百四十五機が出撃している。
当時も今もダーウィンはオーストラリア大陸の北の玄関口であり、軍事的には北の要衝としての大軍港だったが、町そのものは非常に小さく、その頃の人口は三千にも満たない。
そんな小さな町にこれだけの規模を持った日本軍が押し寄せたのだから、その被害たるや推して知るべしである。
報告書によればダーウィンはほとんど壊滅状態だった。
日本軍の爆撃目標であったらしい東飛行場や軍港などのあらゆる軍事施設はいうまでもなく、町の民間施設も完全に破壊されていた。
ファイルに添えられたいくつかの記録写真の中には、骨組みだけが辛うじて残っている格納庫などがある。」