●「続・知らざる日豪関係」(151)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「退院してから、かれの捕虜としての収容所生活が正式にはじまるのだが、これからが実に目まぐるしい。
 かれの移送記録には、次のように記されている。
 ○四二年三月二十三日 ラヴディ収容所・第十四Cコンパウンドに入所。
 ○四十二年四月四日 出所、ウェイヴィル拘置棟へ(記載地ラヴディ)。
(中略)
 ○四十四年五月十三日 第十五収容所病棟へ(扁桃腺炎)
 ○四十四年五月十五日 退院。収容所再編入。 
 ○四十四年八月五日 死亡、胸部銃創のち刺創。埋葬、カウラ戦争墓地。墓標番号Q・C・18。
 この移送記録だけではべつにどうということもないが、ほかの日本人捕虜の移動記録と比較してみると、南の場合がいかに特殊であるかが、はっきりとわかる。」