●「続・知らざる日豪関係」(177)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「当初私はそれを聞くたびに、たしかに作戦も戦況も知らされずに戦った兵隊も多かっただろうが、輸送船団で送られて来たかれらが祖国日本との距離を知らぬはずがない、なにを馬鹿なことをいっているのかと憤慨していた。
 しかしよくよく考えてみると、それもあながちあり得ないことではなかった。
 たとえばラヴディ収容所から海岸までの最短距離は約二〇〇キロ、ヘイ収容所はさらに遠くて約八〇〇キロである。
 南が参加したダーウィン空襲を皮切りに一九四三年末まで、日本軍はオーストラリア本土北部を襲撃し続けていたし、一九四二年の六月には日本海軍の特殊潜航艇がシドニーの港ポート・ジャクソンを攻撃している。
 収容所内には『スミヌリ(注:墨で塗りつぶすこと?)』なしの新聞が毎日差し入れられていたので、英語のできる南はこうした日本軍攻撃を伝える記事も読んでいたはずである。」