●「続・知らざる日豪関係」(217)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「将校キャンプのゲート跡から、ブロードウェイに沿って八〇ヤード。
 南忠男が喉をかき切って死んでいた場所に立ち、私はますますわからなくなった。
 シドニーとカウラとの間を行ったり来たりしていたところ、私は知り合いの、シドニー大学で日本軍政を研究するオーストラリア人教授に、カウラ収容所で通訳をやっていた人物に会ってみる気はないか、とすすめられた。
 それまで私はオーストラリア側の収容所司令部や情報部の関係者、とりわけ情報将校であり訊問官兼通訳だったチャールズ・マン大尉を捜し続けていたが、消息がまったくつかめずに行きづまっていた。
 だから教授からの誘いは、願ってもないチャンスだった。」

 
 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「ネグレヴィッチ氏の教えてくれた住所をたよりに、私はボーマン氏に会いに行った。
 かれはシドニーの目抜き通りにある高層ビルの中で、大きな弁護士事務所を主宰していた。 
 受付嬢に案内されてラウンジでしばらく待つと、やがて現われたのは、痩身で小柄だが、声の大きな若々しい老人だった。
 聞けばもう七十代に入っているというのだが、とてもそうは思えない。
 ボーマン氏は私をオフィスの自室に招じ入れると、ドアを閉め、大きな机をはさんで椅子をすすめた。
 そして数枚綴りのファイルを私に手渡すと、同じファイルのコピーを自分でもめくりながら、
『年をとると忘れっぽくなるのでね、こうして事件のことをメモしておくんですよ』、といって説明をはじめた。」