●「続・知らざる日豪関係」(242)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「たしかにキャンプ内は強硬派の人たちに牛耳られていましたし、かれがその中の代表格でした』 
 おそらくは森木氏のいうとおりだろう。
 金沢はかれの捕虜名簿移送記録でも、前年の四月に捕虜となって以来、マラリアに悩まされていたらしく病院に出たり入ったりしていた。
 カウラへ入ってからも、いまだ体は衰弱していただろうし、とても『戦意』など持つ余裕はなかっただろう。
 これはたしかに強硬派とは言い難い。
 それにかれは、暴動で脱柵し逃亡したものの数日後には再逮捕され、軍法会議の結果、重禁固の刑に服しているが、これは単に捕虜集団の代表としての責任を問われたからであり、暴動を計画し実行に移した首謀者と判明したためではなかったはずだ。」