●「続・知らざる日豪関係」(254)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「曲が終わり、やや合間をおいてふたたび静寂がもどったとき、森木氏は右足をやや引き摺るように、列の中から進み出た。
 四十年前にニューギニア戦線で銃弾を受けた右足は、その後完全に回復することはなかったのだ。
 慰霊碑の前に立ち一礼すると、かれは背広のポケットから厚い和紙の束を取り出し、祭文を読みはじめた。
『昭和五十六年七月二十五日、オーストラリア国とカウラ市の、国境と民族を超越した崇高な人間愛の発露によって祀られております、憂魂の神鎭まりますこの日本人墓地で慰霊の御祭を執行するにあたり、濠洲カウラ会会長森木勝謹みて霊に申し上げます。
 ・・・・・・護国の大任を受け信念を守り通した皆様方、皆様は決して自ら求めた捕虜ではなく、人間のなし得るすべての限界を超越した状況の中に、悲運にも捕われた、まったく不可抗力による捕虜の身であったはずでございます。」