●「続・知られざる日豪関係」(283)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「そして年明けて昭和十七年(一九四二年)の一月二十三日、『飛龍』を含む南雲機動部隊はアンポンの攻撃に出動しているが、このときの第一次攻撃でも、豊島はハワイ作戦のときと同様、上空直衛にあたっている。
 このあと『飛龍』零式艦戦隊が飛ぶのは、十二月十九日の『ポート・ダーウィン奇襲作戦』である。
 こうしてみると豊島はダーウィン空襲以前には、上空直衛二回、攻撃隊参加二回、それも第二次攻撃隊としてであり、零戦の『攻撃隊』パイロットとしては、あまり長い経験はなかったようである。
 そして五回目の出動、つまり問題のダーウィン空襲は、戦史叢書の戦闘概報によれば、『敵ハ戦意極メテ薄弱、動勢ハ活発デナイ』とあり、日本軍はこの攻撃をかなり楽観視していたらしい。」