●「続・知られざる日豪関係」(302)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「『・・・・・・下方では、三機の敵戦闘機に追われた味方の誘導機が、パッパッと周囲にきらめく敵の【曳光】弾を避けようとして、必死にもがいている。
 一機の零戦が急降下すると、敵の一番機の燃料タンクめがけて、銃弾を浴びせ、これを爆発させた。
 そして急降下から今度は急上昇すると、この零戦は二番目のP - 36を【下方から捕えた】』


 坂井氏が書いているこの戦闘は、奇しくも昭和十七年二月十九日の朝、つまりダーウィン空襲で豊島機が被弾したのと同じ日であり、そしてほとんど同じ時刻に、台南航空隊零式戦闘機隊が、スラバヤで行なったものだった。
 ダーウィン空襲で、オーストラリア空軍から迎撃に出たのはわずか二機のP - 40だったが、不運にも豊島機は、台南航空隊の零戦に捕えられたP - 36のように、このいずれかに下方からやられ、しかし被弾しつつも爆発はせず、『我発動機故障ス』となったのだろう。」