●「続・知られざる日豪関係」(376)

 〜中野不二男さんの「カウラの突撃ラッパ 零戦パイロットは なぜ死んだか」より〜


「またシドニーでボーマン元准尉が私に語ったように、マツモトの取り調べのあと、情報部はその予定期日を割り出そうと躍起になって情報蒐集を行なったが、ついにわからなかったという。
 これは要するに、決起の準備や計画は練られてはいたが、明確な日付けは”保留”となっていたからではないだろうか。
 準備だけは整えておき、何らかのチャンス、たとえば日本軍のオーストラリア本土攻撃、または上陸(実際にはなかったのだが)など、一斉蜂起がなんらかの形で友軍の補助となり得るような時期を狙い、毎日のように、収容所内に差し入れられる『ザ・シドニー・モーニンブ・ヘラルド』や『ザ・サン』などの新聞記事に目を通しながら、虎視眈々としていたのではないだろうか。」