「メイト・シップ」の続きの続き

1880年11月11日午前10時、「人生なんてこんなものさ」という言葉を残して、一人の若者が短い人生を駆け抜けて行った。メルボルン刑務所で、絞首台の露と消えたネッド・ケリ−という25歳のギャングである。
 彼を首領とするギャング団は、ウ゛ィクトリア州を拠点に各地で暴れまわった。
 だが、犯罪者の彼を「英雄視」する人々もいる。事実、彼については50册以上の本が書かれ、映画も数本作られている(「太陽の果てに青春を」は、日本でも上映された)。
 このほか、演劇や絵画、音楽の世界でも「主人公」として登場している。
 ネッド・ケリ−は、8人兄弟の長男として貧しい家庭に生まれた。彼は、父親が罪人としてこの地に送られたせいか、金持ちの牧場主から“牛泥棒”のぬれぎぬ(実際に「盗んだ」という記録もある)を着せられ、金持ちたちの言いなりになる官憲に反抗してギャング団を結成し、殺人や強盗を繰り返した。
 ケリ−のギャング団には、高額の懸賞金がかけられた。警官や町の権力者が次々と殺されてメンツをつぶされた警察は、必死になって彼らの行方を追った。だが、彼らは“神出鬼没”。突然現れたかと思うと、アッという間に姿を消してしまう。
 捕まるまでのおよそ1年半、ケリ−たちは官憲の手を逃れて、好きなように暴れまくった。
 実は、彼らがうまく逃げおおせたのは、スコットランド出身の金持ちや権力者と闘うネッド・ケリ−たちを支援し、かくまう人々がいたからだという。
 それは、アイルランド出身の農民たちだった。ちなみに、ネッド・ケリ−の父親はアイルランドの出身。つまり、この背景には、スコットランド人とアイルランド人との対立=金持ちのスコットランド出身の牧場主と、貧しい農民の多いアイルランド人との対立があったからだという見方もある。
 この国のあるジャ−ナリストは、「ネッド・ケリ−たちをかくまった行為こそ、オ−ストラリアのメイト・シップを具現したものだ」と述べ、私の友人の一人も、「たとえ、火の中水の中、警察に追われている相棒を見捨てないのがメイト・シップだ。彼らをかくまったのは当然だ」と言い切る。その一方で、「犯罪者をかばうのはおかしい。罪を犯した者は、裁かれるべきだ」という反論もあった。彼が、「スコットランドの出身かどうか」は確かめられなかったが・・・。