●「続・知らざる日豪関係」(6)

 1881年から日本人の潜水夫が西オーストラリア州の木曜島に行くようになり、1913年には、木曜島やブルームの真珠産業で働く日本人の数は、1,740人に増えた。
 そのほとんどは和歌山県の出身で、「すぐれた潜水技術は高く評価されていた」という。
 また、19世紀終わりごろには、砂糖産業に従事するため、日本人労働者が現在のクィーンズランド州に移住している。
 一方、1905年には、高須賀穣(通称「ジョー」・松山市出身)によって、稲作が初めてオーストラリアに伝えられた。
(わたしが滞在中に食べたオーストラリア(NSW)産のお米は、「大変おいしかった」)。